どの神社にも個性がある

takase222013-01-02

 『神社は警告する』の最後に、「この本を読んだみなさんが、しばらくご無沙汰していた近くの神社を訪れ、なにかを感じていただけたらうれしく思う」と書いたが、お正月は神社と触れ合えるいいチャンスだ。
 境内を回るだけで、いろんなことが見えてくる。
 まずは歴史を学びたい。神社によっては「由来」が書いてある札が立っている。その地域とともに歩んできた神社の姿が分かるだろう。
また、祭神、ご神体が何か、にも地域による特徴が出ているはずだ。例えば、洪水多発地の神社には、川を司る祭神が、海辺なら海を鎮める祭神が祀られていることが多い。

 本殿以外に小さな社がたくさん立っていることがある。摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)と呼ばれ、本社の祭神にゆかりのある神(たとえば本社の祭神のお后や子ども)だったり、本社祭神の別な側面、たとえば荒魂(あらたま)であることもあれば、土地に古くから鎮座していた地主神の場合もある。
 同じ稲荷神社(お稲荷さん)でも、この町のと隣町の稲荷神社では違うのだ。
 
 こうして観察していくと、一つの神社の性格が次第に浮かび上がってくる。
 例えば、きのうお参りした近くの村社、「内藤神社」は縦横40mほどの敷地の小さな神社だ。幹回り3m超のご神木のシラカシがすっくとそびえて凛とした印象を与える。(写真)
 その境内には、『殉難の碑』という意外な碑が建っている。
 「明治三年社倉積立金の徴収に反対して十二カ村の農民が蜂起した社倉騒動(御門訴事件)の折、内藤新田組頭、高杉六兵衛は同年四月品川県役所に捕えられ同月十七日獄死した。村民のために一身を捧げた祖先六兵衛の御霊安かれと念じ殉難の碑を建立する」(平成十五年十二月 施主 高杉久夫)

 へえ、驚いた。
 神社というと、明治期の国家神道への転換のせいで、非常に保守的で体制派的なイメージがあるが、この碑は、明治政府による弾圧の犠牲者を顕彰しているのだ。
 社倉騒動(御門訴事件)とは何か調べてみた。
 品川県(現在の東京23区の西部と多摩地区、埼玉県の一部)が凶作飢饉対策として貯蔵米の供出を命じたが、それに対して武蔵野新田の窮状を訴えた村役人層の嘆願運動があった。村役人代表が拘束されたため、明治3年1月10に数百人の農民が県庁に押しかけた。弾圧によって多数が捕縛され、劣悪な牢内と苛酷な拷問などで8名が獄死した。結果、供出量は、事実上農民側の要求を入れ、当初の負担と変わらない額に減じられたという。
 また、境内には、高杉六兵衛が建立したといわれる大日如来の石仏が祀られた小さなお堂がある。その由来にはこうある。
 「六兵衛は深く仏教に帰依し村の発展を願ってこの大日如来を造立したが、明治初年の神仏分離令により、内藤神社本殿から当処に安置された」
 日本は伝統的に神仏儒混合で信仰心を培ってきた。ご神体が観音様や阿弥陀如来などという神社がたくさんあった。
 ところが、明治政府は神仏分離を命じた。そのため、神社から仏像など「不純物」を排斥し「純化」するよう強制したのだった。明治政府は、国家神道化を進め、神社は宗教施設ではなく国家の公的な施設とされ、神職は公務員としての扱いを受けるようになった。
 この過程で、社格制度が設けわれ、全国のすべての神社が「官幣社」から「小社」までに格付けされ統制された。国家神道化は、個々の神社の個性を剥ぎ取ろうとする過程でもあったと私は思う。
 この結果、内藤神社でも、本殿から大日如来の石仏を外に出さざるを得なかったが、同じ境内にお堂を建てて祀っているわけだ。この神社には、国家神道化への抵抗の跡が見える。
 神社とは、一つひとつが、地域コミュニティとともに生きてきた、実に個性的な面白い存在なのである。