地雷を踏んだらサヨウナラ

takase222012-08-29

御茶ノ水駅のホームに蝉の声が響く。
神田川をはさんだ向こう側の木々かららしい。まだまだ残暑は厳しそうだな。
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今週の朝日歌壇、松田姉が入選。
ロープウェイ降りればそっとひぐらしが鳴いているここは夏の終点
                    松田梨子(高野、馬場選)
今週、複数の選者から選ばれた唯一の歌だった。
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さて、なぜ、何を求めてジャーナリストたちは戦場に行くのかである。
私たちの若いころ、戦場からの報道がもっとも華やかに繰り広げられたのは、ベトナム戦争だった。
ベトナム戦争第二次インドシナ戦争)では、米軍や南ベトナム軍への従軍取材は自由だったという。我こそはと、各国からジャーナリスト、カメラマンが志願して戦闘の現場へと赴いた。
戦争は報道の「華」である。少なくともかつてはそうだった。ベトナムで写真を撮っていたんだよ、と言えば「すごい!」と一目置かれた。ハクがついたのである。
ベトナムで、「一発当ててやろう」と意気込んでサイゴンに向かったカメラマンもたくさんいた。決定的な瞬間をフィルムにおさめることができれば、その写真は世界中に配信され、一夜にして名声を勝ち得ることができる。
沢田教一のようにピュリッツァー賞に輝くカメラマンも出てきた。
その一方で、犠牲になったものも多かった。「世界のサワダ」となった沢田教一も、70年、カンボジアポルポト派に殺された。34歳の若さだった。それでも多くの若者が競って戦場に突っ込んでいった。
73年、「地雷を踏んだらサヨウナラ」と友人に手紙を出して消息を絶った一ノ瀬泰造は、アンコールワットへの一番乗りを目指して単独、ポルポト派支配地区に向かい、ポルポト派に捕まって殺されている。「地雷を踏んだら・・・」とは、あの伝説の報道写真家ロバート・キャパのようにという意味だろう。キャパは1954年、第一次インドシナ戦争を取材中、ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。
第二次インドシナ戦争で命を落とした日本人ジャーナリストは21人(うちカンボジアで11人)にもおよぶ。
当時、彼らは何を求めて戦場に向かい、そして死んでいったのか。多くは、きれいごとの大義名分ではなかったと思う。
彼らの次の世代、私と同年代のジャーナリストに長倉洋海(ひろみ)がいる。エルサルバドルの内戦、アフガン内戦、パレスチナの虐殺など大量殺りくの現場から優れた写真を世界に配信した、日本を代表するフォトジャーナリストだが、彼の『激動の世界を駆ける』(講談社)にはこんな文章がある。
《私はインドシナ戦争の持つ歴史的意味もさることながら、その取材に向かう人々に惹かれていった。死を賭してまで、彼らを向かわせるものは何なのか。それほど、“報道写真”とは価値あるものなのか、と。報告や写真集を買い、手に入らないものは図書館に通って読んだ。沢田教一の「泥まみれの死」、嶋元啓三郎の「彼はベトナムで死んだ」、一ノ瀬泰造の「地雷を踏んだらサヨウナラ」、岡村昭彦の「南ヴェトナム戦争従軍記」「兄貴として伝えたいこと」・・・。
 報道写真!自分の目の前で現代史が動き、一ページがめくられていく。その躍動感と緊張感。「自分自身がその場に立って感動してみたい」と思った。そして、そこにはその報告を待つ読者がいる。自分の感動を受けとめてくれる読者がいるのだ。これこそ、自分の情熱をぶつけるに値する仕事だ。(略)
 戦場で死んだ彼らの遺稿集の中に、彼らが「戦争をなくすために」「民衆のために真実を報道する」という大義だけで前線に向かったのではなく、「いい写真が撮りたい、そして人に認められたい」という彼らの人間らしい赤裸々な心情を見つけたとき、私はホッとした。》
 実にみずみずしく熱い文章だなあ。
(つづく)