柳原和子さんの訃報

朝刊に知っている人の訃報があった。
《「がん患者学」などの著作があるノンフィクション作家柳原和子(やなぎはら・かずこ)さんが2日、都内の病院の緩和ケア病棟で、卵管がんのために死去した。57歳だった。葬儀は近親者だけで行った。
 タイ・カンボジア国境の難民キャンプでのボランティア経験をもとに86年に執筆した「カンボジアの24色のクレヨン」でデビュー。94年には世界40カ国で暮らす日本人204人に取材した「『在外』日本人」を発表した。
 97年にがんを患ったことをきっかけに治療の現場を取材し、長期生存患者へのインタビューや医師らとの対談をまとめた「がん患者学」を00年に出した。患者の視点から現代医療を批判した内容は反響を呼び、患者運動が広がるきっかけや指針の一つにもなった。
 03年にがんが再発した後も、闘病記「百万回の永訣(えいけつ)」などの執筆や、がん治療についてのテレビ出演を続けていた。》(朝日新聞
 柳原さんがリポーターになってタイ・カンボジア国境を取材する番組でご一緒したことがある。「カンボジアの24色のクレヨン」を出版した直後だったと思う。当時、彼女はちょうど「売り出し」中で名前が知られ始めていた。肩に力が入っていたのかもしれない。かなり我の強い人だなと感じた。現場で私とはかなりぶつかった。私も彼女に邪険にした。
 取材では、森の中を歩いてまさに国境となっている小さな川にでた。その川をじゃぶじゃぶ渡って向こう岸に出たら、そこはポルポト派の村で兵士に追い返された覚えがある。取材自体はスリリングだったが、柳原さんとは今後、仕事をしたくないと思って別れた。
 その後、柳原さんはがんになって、新しい分野を切り拓いた。2〜3年前、テレビで彼女を見ると、気の強そうな感じは残っているものの、昔より随分穏やかな表情になっていた。縁があれば、一度どこかで会ってみたいなと思った。私も昔よりは「柔和」になっているので、「あの時はこっちも突っ張っていました。意地悪してごめんなさい」と謝れば、笑い合えたかもしれない。彼女が亡くなってそれもかなわなくなった。
 死ぬときに思い残すことのないように。これは誰しも願うことだ。「思い残す」ことがらには大きく三つあるという。人と仕事(活動)と自然だ。そのうち「人」の要素はかなり大きい。
もっとあの人に優しくするんだった。親孝行できなかった。あんなに侮辱しなければよかった。大事な話をするチャンスを逸してしまった。一度でいいから謝りたかった・・・
残りの人生が少なくなり、思い残すことのないよう生きたいという思いがつのってくる。