鳩山首相の言動には「迷走」などという表現ではすまないものを感じるが、結果的には、私たちがアメリカとの関係をどうしたらいいのかをはじめから考え直すきっかけにもなっている。
東京ではハナミズキが今を盛りと咲いている。2日の「産経抄」は、日米関係に寄せてハナミズキの話を書いていた。この木は、明治末、日本からアメリカに贈ったサクラへの「お返し」だったという。
去年、このブログで、ワシントンのポトマック河畔に咲くサクラと韓国で広まっているサクラは、両方とも日露戦争がらみだと書いた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090330
ハナミズキは、サクラ苗木のお返しとして1915年に東京市に進呈されたという。贈られたのは40本の苗木で、その原木が井の頭文化園、有栖川記念公園、神代植物園、新宿御苑、小石川植物園にあると、あるサイトに出ていた。ただ、その後、アメリカとの戦争で敵国の木だとして伐られたとも言う。
本格的に日本に広まるのは戦後らしい。マーカーサーがこの木が好きで、日本各地に植えさせたという。
「ハナミズキは、マッカーサーの出身地ヴァージニア州の州花。その彼が、港区のアメリカ大使館のまわりに植えさせたのがそもそものはじまりで、日本中にハナミズキを多く植えさせたとのこと。因みに港区の区花は、ハナミズキ」
http://members.jcom.home.ne.jp/yhos/hanasi/hanasi2.html
日露戦争ではアメリカの国民感情は日本に傾いた。サクラは、日本の立場を理解してポーツマス条約締結へと尽力してくれたアメリカに感謝して、尾崎行雄東京市長が贈ったものだ。だが、日本の勝利は対日警戒感を呼び起こした。ハワイ合併(1898年)で本土渡航が可能になり、日本人移民がハワイのサトウキビ畑を捨てて西海岸に殺到した時期にもあたり、黄禍論がさかんになる。排日の機運が高まり、カリフォルニア州では、1905年には蒙古系と白人の混婚禁止法、1912年排日土地法ができる。
こうした微妙な時期に、サクラとハナミズキの交換で両国間を取り持とうとしたのが、アメリカ人ジャーナリストのシッドモアという女性だった。
彼女は日本に魅せられた外国人の一人で、その日本人評は《最も丁重で、洗練され、審美眼を備えた民族であり、明朗、快活で、親しみやすく、相手をひきつける》というものだった。http://www.city.chuo.lg.jp/koho/210515/san0515.html
だが、彼女らの期待に背くように、日米は対立を深めていく。
花一つにも人間社会とのかかわりが刻まれているものである。