舛添さんの思い出

takase222010-04-22


東京が夏日になったきのう、朝早い便で札幌に行ったら、気温5度。真冬のような寒さだった。仕事を終え、夜、宿でテレビを着けたら、舛添要一さんが自民党を辞めて新党を立ち上げへ、というニュースが流れていた。
舛添さん、本気で首相になるつもりなんだな。
舛添さんとは縁があって、いろんな思い出がある。
初めて舛添さんに会ったのは、彼が東京からバンコク経由でカンボジアに行ったとき。バンコク在住の私が、空港の出迎えから一泊して翌日の空港見送りまでのアテンドを依頼されたのだった。
タイ料理を食べながら、いろんな話を聞いた。
当時、彼は政治評論家としてメディアにひっぱりだこで、とても忙しかった。選挙ともなると、テレビ各局を掛け持ちで出演、何日も半徹夜状態が続くのが常だった。徹夜するときは「精をつけなくちゃいけないから、毎食、うな重を食べるんだ。一日4食になることもある」と言うのには驚いた。私などは、徹夜すると食欲がなくなるのだが。この人は怪物だな、とびっくりしたのを覚えている。タイ料理は初めて、と言いながら、一人おかわりを頼んでもりもり食べていた。
次に会ったのはインドネシアサンデープロジェクトの特集で、インドネシアでの日本のODAについて舛添さんがリポーターになって検証したとき、コーディネーターとして付き添った。後に大統領になるメガワティ氏をインタビューしに、自宅を訪問したときも同行した。当時メガワティ氏は自宅謹慎のような状態だったと思う。
一日、暑い中、取材で駆け回るとけっこう疲れる。ところが、舛添さんは違う。夕食後、ぐったりした取材スタッフを尻目に、夜の街に遊びに行こうと一人張り切っている。私たちは明日の準備があるのでと部屋に引き下がり、現地の商社の駐在員に夜のアテンドをお願いした。
日本人が東南アジアを旅行すると、疲れもあって、下痢をすることが多いのだが、舛添さんは「これまで下痢などした覚えがない」そうで、いつも食欲旺盛。肌もつやつやしてやつれた様子がない。驚異的な体力に目を見張った。
やはりサンデープロジェクトで、舛添さんとミャンマーのアウンサン・スーチー氏が電話討論したときもコーディネートを受け持った。東京のスタジオとスーチー氏の自宅を結ぶ初めての試みで、私はスーチー氏のそばにいた。
はじめは穏やかに話していたスーチー氏だが、次第に顔が険しくなった。最後はまだ舛添さんが話し終わらないうちに、怒ったように電話器にぷいと背を向け、私に“He is very rude.”(とても失礼な男ね)とだけ言って、奥に引っ込んでしまった。
舛添さんは、スーチー氏のような理想論では国は治められないという考えで、スーチー氏をずけずけ批判したようだった。彼女が「無礼」と感じたのは、舛添さんの英語表現力の不足が原因なのか、話の内容なのかはよく分からなかった。しかし、舛添さんの声の調子から、嘲弄するような印象を受けたのではないか。確かに、舛添さんの辞書には「謙虚」という文字はなさそうだ。
舛添さんは、母親の介護体験を一つの「売り」にして政治家への道に入った。それでも、彼の言動からは、恵まれない弱者への思いやりはあまり感じられない。
舛添さんをWikipediaでみると、上手にチャンスをつかんできた人であることが分かる。陽性であけっぴろげ、強靭な体力があることは政治家向きかもしれないが、「現実主義」だけの政治哲学では、この動乱の時期のリーダーたりうるか不安である。「政治屋」に堕すことのないよう祈っている。