ノイノイ・アキノの思い出 2

takase222010-05-13

フィリピンには政治家の名門がある。
アロヨ前大統領も父親がマカパガル大統領というエリートの家系。アキノ家も名門中の名門だ。このアキノ家に、日本との深い因縁があることは意外に知られていない。
大東亜戦争において、日本にとってのフィリピンの位置はきわめて重要で、日本軍の侵攻は早かった。真珠湾攻撃の当日、1941年12月8日、フィリピンの米軍基地を爆撃、22日には陸上部隊を上陸させている。
長くアメリカの植民地だったフィリピンの国論は親米、親日に分かれた。親日勢力を率いたのがベニグノ・アキノ・シニア、つまり今回当選したノイノイ・アキノの祖父だった。
フィリピンは2年近い日本軍政期を経て、43年10月に「独立」を認められたが、そのときの大統領は、アキノとともに反米親日路線を採った政治家、ホセ・ラウレルだ。
写真は1943年の大東亜会議でラウレルは右から2番目(真ん中が東条英機、右端はチャンドラ・ボース)。
アキノは国会議長として日本時代のフィリピンナンバー2の地位を占めた。
後に、86年コラソン・アキノが大統領になったときの副大統領はドイ・ラウレル。ホセ・ラウレルの息子で、かつての親日政権を担ったアキノ、ラウレルコンビの再来となった。ラウレル家とは、マニラ南部のバタンガス州を牛耳る、これも名門だ。
戦後、またアメリカがやってきて、アキノ、ラウレルとも対日協力者として非難された時期もあった。しかし、この二人とも、反米民族主義の根性の据わった政治家で、支配者日本を相手にしたたかに交渉し、米英への宣戦布告なしに、カッコつきではあるが、43年10月14日、にフィリピン「独立」を勝ち取っている。
その前の9月、「独立」の協議で9月に東京に呼ばれたラウレルとアキノは、対米英宣戦布告を迫った東条首相らに向かって、はっきりとこれを拒否している。その後も時間かせぎをして、44年9月になってようやく「戦争状態の存在」(existence of a state of war)を認めたという粘り腰だった。
43年8月1日に「独立」したビルマが即日、米英に宣戦布告をしているのと対照的である。
ラウレル、アキノを、日本軍の圧政の“楯”になったと弁護する議論があるが、これには十分根拠があると思う。
1986年の2月革命で、マルコス一族が追放され、暗殺されたニノイの妻、コラソン・アキノが大統領になったとき、私は素直にうれしかった。マニラの街にあふれる貧困と腐敗が、マルコス独裁のせいだと思っていた私は、コラソンの大統領選挙遊説の最終演説に涙し、この国をよくしてくれることを強く期待した。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090803
その後、コラソンの実家を調べると、コファンコは大地主で、もとは福建から移民した「許」(コ)という華人ファミリーである。コファンコ家のハシエンダ(大農園)ルイシータは6400ヘクタールもあった。民主化をかかげたアキノ政権下で、農地改革が課題としてあがったが、これは無理だろうなと思った。ルイシータ農園に行って小作人たちに聞いても、自分の土地を所有するなど望んでいないと答えるのだった。結局農地改革は尻すぼみに終わった。
後にルイシータ農園にも農民運動が及び、2004年11月16日には小作人ストライキに立ち上がった。警察と軍が鎮圧に乗り出し計14人が殺されるという大惨劇が起きている。
新大統領ノイノイは、気さくで清潔だという評判だが、昔ながらのフィリピン政治の深層を垣間見た私は、正直、どこまで期待すべきか迷ってしまう。