きのうまで選挙カーが「お騒がせして申し訳ございません」とアナウンスしながら回っていた。パソコンの調子が悪くなって、問い合わせセンターに電話すると「電話が込み合いまして、申し訳ございません」。
「申し訳ございません」という言葉を耳にしない日はないほどだが、これは日本語として誤っているという。
「申し訳ない」というのは一つの言葉で、「ある」「ない」の「ない」ではない。だから「申し訳ある」という表現はなく、従って、「申し訳ありません」とか「申し訳ございません」とはならないというのだ。
私は「正しい日本語」にかなりこだわる。というより「正しい日本語」に弱い、というのが正確かもしれない。
私が幼いころ、方言差別はひどかった。東北弁は笑いの対象で、山形県出身の喜劇役者、伴淳三郎がズーズー弁を売りにしていた。
都会に就職した女工さんが、「方言を笑われて自殺」などという痛ましい記事が『山形新聞』に載る時代だった。だから、東京標準語に対する劣等感は強く、大学受験で上京する前には、高校の友人同士で一日中標準語だけを使う訓練までした。
東京に来てみると、こっちは懸命に標準語を話しているのに、関西出身者は大っぴらに「何いうてんねん」などとしゃべっている。不平等だな、ずるいな、と釈然としなかった覚えがある。
文章読本の古典に、丸谷才一の『文章読本』、井上ひさし『自家製文章読本』がある。この両者とも山形県出身であることは偶然ではないと思う。地方、特に東北出身者は、中央の標準日本語への怨念がある分、逆に「正しい日本語」への強烈なこだわりが生じるのではないかと私は推測している。
私が「正しくない日本語」に出会うと、激しく反応するのもそのせいかもしれない。
駅のプラットホームに、「列車が遅れまして、大変申し訳ございません」というアナウンスが流れるたびに、あたかも駅員が指差し確認するがごとく、「これって間違ってるんだよな」と一人内心でつぶやくのである。
正しくない道に踏み出した「申し訳ない」に比べると、「ふがいない」、「だらしない」、「もったいない」、「情けない」、「味気ない」、「やるせない」、「しどけない」、「そっけない」、「さりげない」、「ぎこちない」などは頑張っている。まだ誰も「情けございません」とか「もったいありません」とは言わないだろう。
そもそも「さりげ」とか「ぎこち」とはどんな意味なのか、よく分からない。
「申し訳ない」が崩れの横綱とすれば大関は「とんでもない」あたりか。
順番をつけたのは、ある日本語の常識を説いた本を読んでいたら、「とんでもございません」は間違いですと断定した数ページ先に、丁寧に謝るときには「申し訳ありません」と言いましょうと書いてあったからだ。「申し訳ありません」「申し訳ございません」は、もうすっかり「正しい日本語」とみなされているわけだ。
「とんでもありません」「とんでもございません」もかなり広まり、新聞や雑誌で使用されるケースも散見される。
さらに、その「とんでもございません」が、私の尊敬する藤沢周平の作品に出てくるにおよんで、私はすっかり混乱してしまった。
(つづく)