「夢」のイデオロギー2

あまりにすごすぎて、しらけてしまうということがある。マイケル・ジャクソンの死から葬儀にかけての騒ぎなどはそうだ。
遊園地に住むという常識はずれの夢を実現した「ネバーランド」は、私の理解を超えるが、彼は不世出のスーパースターとして比類なき成功を収めたのだと思う。大変な「成功」ではあるが、しかし彼には「しあわせ」のイメージはない。
不幸せな成功・・・
彼は、アメリカン・ドリームの一つの形だと思うが、ドリームにつきまとう翳ははっきりと見えた。
アメリカン・ドリームというゲームに参加する者は、成功者は億万長者になり、失敗すればどん底に落ちるという現実を承認せよと迫られる。
徒手空拳で移民してアメリカン・ドリームに笑うのはほんの一握りである。どれだけ豊かになってもかまわない。一方、ゲームに負け貧困に突き落とされた人びとは、医療も受けられなくなる。
アメリカン・ドリームをもてはやし、「チャンスのある自由の国」アメリカを讃えるのは、国民にこの体制に不満を抱かせることを阻止するイデオロギーである。
失敗したら君の責任だ!でもまた夢を持ってがんばれよ!負けても文句言うなよ!
夢とは個人が見るものであり、一人ひとりが勝手に心に描くものである。自分がのし上がってビッグマネーを掴み取ろうというのが基本である。
だからマーチン・ルサー・キング師がI have a dream(私には夢がある)と社会的メッセージを盛り込んだのは、インパクトがなおさら強かったのだろうと思う。
「私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、奴隷の子どもたちと奴隷所有者の子どもたちが、兄弟愛という同じテーブルに坐ることができることを」。
これは後にジョン・レノンが「イマジン」で繰り広げるイメージの世界である。いずれもアメリカン・ドリームとは対極にある世界だ。
ただ、夢とは通常、個人の営為だから、ひどい絶望的な状況のなかでも、自分の夢を持つことはできる。長引く戦乱のなか、自分一人が裕福な欧米人に引き立てられて外国に移住するというのは、難民が普通に描く夢である。夢とは本質的に利己的なものではないか。
これに対して、「希望」という言葉は、連帯を含みこんでいる。勝手にのし上がる自由はあっても、他方に惨めな敗者がほっておかれるというのは、希望のある社会とはいわない。社会から「希望」が失せていくに従って、「夢」が前面に出てきた。私にはそんな気がする。
転落の心配のない、心安らかに暮らせる社会では、ことさらに「夢」が強調されることはないはずだ。
「夢」という言葉があふれ多用されるよりも、「希望」ある社会を作ろうという気概が満ちることを私は願いたい。