医師は、ふつうは重病の人を優先的に診るが、戦場や大災害の現場での救急医療では逆に、助かる可能性の高い人を優先する。圧倒的に不足する医療スタッフと医薬品を、限られた時間内で最も有効に使うためである。
「平和が一番、命ほど貴いものはない」という考えには誰もが賛成しそうだが、民族解放戦争という「正義の戦争」を闘っていた当時のベトナムでこんなことを言っても、そっぽを向かれるだけだったろう。
ある局面で正しいことが、別のところでは間違ったことになる。
では、「絶対に正しい」と断言できる思想はないのだろうか。
私は若い頃、マルクス主義、というより共産主義を信奉していて、これで世界はすべて解釈できると思っていた。その信念が崩れたとき、じゃあ何が正しいのかという当然の疑問が押し寄せてきた。
そもそも世界には、なぜこんなにたくさんの「大思想」が存在するのだろうか。
日本語で読める範囲だけでも、古くは西のギリシャ哲学諸派、東の道教・儒教からデカルト、カント、ヘーゲルといった近代の代表的論客の思想、そしてポストモダンのさまざまな思想潮流と百花繚乱だが、これはおかしいではないか。
唯物論が正しいのならば、観念論は間違っているはずだ。逆に観念論が正しいなら唯物論は淘汰されなくてはならない。正しいのはどれか一つで、その他はいらないのではないのか。
なぜ何百もの違った「思想」が、同時に正当性を主張しているのだろうか。
もやもやした疑問を抱くなかで15年ほど前に出会ったのが、ケン・ウィルバーというアメリカの思想家の本だった。
読み進むにつれ、これはすごい!と驚き興奮した。
ウィルバーによれば、「すべての思想は、みな正しい」という。ただ、それぞれが一部の真理だけを語っているというのだ。
そして、あまたの諸思想を、世界の象限、レベルに整理して位置づけるという壮大な見取り図を示していた。
例えていえば、ウィトゲンシュタインやプラトンや古代インド哲学などの諸思想がイルミネーションとして枝にかけられ、様々な色を放っている巨大なクリスマスツリーを作ったのである。あのマルクスも、イルミネーションの一つとして、あるレベルとある象限における一部の真理をあらわした思想として位置づけられる。
この方法を「志向的一般化」(Orienting Generalization)といい、ウィルバー思想の中核だと私は理解している。
過去見たことのない壮大なスケールの思想で、私は、これこそが「最終思想」なのではないかと思い(それは間違いだったのだが)、邦訳された本を次々と買って(『エデンから』だけは入手できなかったが)ほぼ読んだ。
ウィルバーは、「ニューエイジの旗手」として登場し「トランスパーソナルの代表的理論家」になった後、さらに思想的に脱皮し、現在は「インテグラル(統合)理論」を提唱している。アル・ゴア元副大統領も愛読者だといい、アメリカを代表する思想家になっている。
ウィルバーのキーワードは「統合」である。
それは、赤と白の絵の具をまぜてピンクにするというのではなく、高いレベルにおける超越的統合だ。
では、政治における右翼と左翼も「統合」できるのか。
(つづく)
(なお、ウィルバーのウィキペディアは詳しいが、「志向的一般化」について触れられていないのが不満であるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC)