きのう、NHKの「プロフェッショナル」という番組を観ていた。ハリウッドでも高く評価されている特殊メイクの江川悦子氏が登場したのだが、キャスターの茂木健一郎氏がこんなことを言った。「人間にとって一番大事なものは、《夢のふくらし粉》だと思うんです。江川さんのふくらし粉って何ですか。」
茂木氏は、世間の常識よりほんの少し高尚な気の利いたことを言う「立ち位置」を期待されている。ということは、今の日本では「人は夢を持って生きるのがよいことだ」という常識が成立していると考えてよいだろう。
こんなことを書くと「夢を持つのは素晴らしいに決まっているじゃないか!」と怒鳴られそうだが、ひねくれものなのか、私には、今の世の中に「夢」が氾濫しているように感じられるのだ。
ある晩飲んでいたら、隣のテーブルで、会社帰りのグループがわいわいやっていた。
中年のおじさんが、同じ職場の若い後輩に聞く。
「お前の夢は何だよ」
「夢といわれても、別にありませんけど」と若いの。
「情けないぞ!人はな、いつまでも夢を持ってないといけないんだ」と先輩はからんできた。
どうやら、夢を持つことが推奨されるばかりか、それはもう義務でさえあるらしい。夢を持たないと生きる資格がないといわんばかりだ。
私が小さいころは、地味でもいいから地に足のついた暮らしを目指すことがよしとされ、「夢みたいなことばかり言ってるんじゃない!」と叱られたものだ。
なぜなら、私の世代にとって「夢」といえば、「夢のハワイ旅行!」であり「夢の超特急」、そして「夢見る乙女」。「夢」とは現実離れした遥かなあこがれであったからだ。
60年代前半、《いつでも夢を》という歌がヒットした。今だったら何の変哲もないこのタイトルがけっこう新鮮だった。なお、これはレコード大賞に輝いたが、当時の吉永小百合の歌う姿を今見ると実に可憐である。http://www.youtube.com/watch?v=DIl1FCohotw
アジアの子どもたちのドキュメンタリーを観ていたら、こんなナレーションが出てきた。
「少年の夢は、立派な象使いになることです」
これに私はちょっと違和感を持った。というのは、少年の父も兄も象使いだったのだ。だから、少年は「家業を継ぐ」という実に堅実な道を歩んでいるわけである。こういう場合も「夢」という言葉を使うのかと疑問を持ったのだ。今は「夢」という言葉の内容がずいぶんと薄まってきているようである。
そういえば近年、テレビのレポーターが何かというと「夢は何ですか」という質問をする。これがまた気になる。
子どもにマイクを向けて「君の夢は何ですか?」と聞く。ここで期待されているのは、「宇宙旅行をする」とか「魔法使いになる」といった類の答えではない。「看護婦さん」や「サッカー選手」など、単に将来なりたい職業を聞いているのである。
あるいは、おばあさんに「夢はなんですか」と聞くと、答えはたとえば、「娘と温泉旅行をしたい」だったりする。
つきたい職業や趣味などを「夢」という言葉で表現するのは、ここ20年くらいで急速に広まった現象ではないかと思うがどうだろうか。
社会はいま我々に「夢」を持つことを迫っている。「夢」という言葉が氾濫し、浪費されている。「夢」の内容が希薄化しているのはその結果なのではないだろうか。
なぜ、こうなってきたのか。
(つづく)