きょうは、トラブルが予想される案件が3つほどあったので、朝、ちょっと構えて、カンボジアの「伝統の森」のマフラーとハンカチを身に着けていった。自分なりの「勝負服」。まあ、縁起担ぎなんだが、明日をも知れぬ零細企業のおやじとしては、何かにすがりたくなる。不安のなかにいる現代人が、オウムや新興宗教にはまるのも理解できる気がする。
なんとか大きなトラブルにならずにすんで、夜は安田純平さんと会って酒を飲んだ。おもしろい話をしたのだが、それは次回書こう。
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きのうきょうと冷たい雨が降った。
こういうとき、どう感じるのか。そこにその人の人格が現れる。よく、感じたままに、感性に素直に生きよなどというが、人格の高まりとともに感じ方自体も変わってくる。
私の人生の師、岡野守也先生による道元の短歌についての一文を以下に紹介したい。
《道元の和歌のなかでももっともよく知られているのは、川畑康成がノーベル文学賞の受賞記念講演「美しい日本の私」で引用した次の一首でしょう。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり
一見何の説明もいらない日本の四季の風物を詠った歌に見えますし、実際そう読んでも、とても美しい一首です。
ところが、実は歌の前に「本来(ほんらい)の面目(めんもく)を詠ず」という「詞書(ことばがき)」があります。「本来の面目」とは覚って初めてわかるほんとうの自分の顔=姿といった意味ですから、自然のありのままの、しかも移ろっていく姿に、ほんとうの自分を見ることができる、と詠っているのだと思われます。
いうまでもなく、主客分離的に見た、私の向こうにある対象としての自然ではなく、主客合一的に観照した、私とつながってひとつの全体としての自然です。
花、ほととぎす、月まではいわゆる月並みですが、冬の雪の捉え方に道元の覚りに裏付けられた独特の感性〈唯識用語でいえば「成所作智(じょうしょさち)」〉が表現されている、と読めます。「冷たくて嫌だ」ではなく、「さえてすずしかりけり」と感じられるというのです。
おなじ趣きの和歌をもう一首。これは「法華経」と題されています。
峰のいろ谷の響きも皆ながらわが釈迦牟尼(しゃかむに)の声と姿と
自分を包んでいる自然に自分と一体なる仏=宇宙の声を聴き、姿を観る、ということでしょう。
そうした道元の覚りの感性では、しばしばもの淋しく感じられがちな秋のゆうぐれもこう捉えられます。
人しれずめでし心は世の中のただ山川(やまがわ)の秋のゆふぐれ
この歌には「十二時中空しく過ごさざるの意を詠ず」と「詞書」があります。十二時とは現在の二十四時間、つまり一日すべて、さらにはいのちの時すべてを意味します。山川の秋のゆうぐれも、ふつうの人とちがって淋しがるのではなく、「愛(め)でる」のです。有名な(しかし読みも意味もやや違っている)禅語「日日是好日(にちにちこれこうにち)」とおなじ意でしょう。》
(「サングラハ」第162号P48)
道元の「正法眼蔵」を岡野先生の指導で読んだとき、その深さに感動した。「覚り」というのは、どこかから降ってくるのでもなければ、「曰く言い難し」と神秘化されるものでもなく、人格を向上させていくゴールと捉えるべきだと思った。ブログのタイトルの諸悪莫作もそこからとった。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080101
「冬雪さえてすずしかりけり」という境地でこの冬を過ごしたいものだ。