「覚りへの道」は長期連載になるはずで、本当は叙述の順序を考えなくてはならないのだが、とりあえず、書けるところから書いていく。
また、このテーマは、一家言ある人があまたいるが、細かい議論に捕らわれると、覚りへの実践が遅れてしまうので、なるべく大きくとらえることを心したい。
「覚り」というといろんなイメージがあると思うが、典型的なのが、こんなところではないだろうか。
私の郷里の山形の出羽三山は山伏の修行で知られる。ドキュメンタリーで、滝に打たれて修行する山伏にカメラが密着。インタビュアーが山伏にマイクを突きつける。「覚りとは?」
一拍あって山伏が重々しく言う。
「いわく言いがたし!」
こういうのは、私は嫌いである。
そもそもが胡散臭いし、「覚り」というものは、最後は言語表現が難しいところに行く(と今は私は理解している)かもしれないが、ぎりぎりのところまでは理屈で理解したいではないか。
だいたいが私は唯物論者であったわけだから、一気に神秘主義には飛躍できない。このシリーズは、まずは「覚り」を理屈でどこまで追及できるかという精神で書いていきたい。
先日、道元を主人公にした「禅」という映画を観た。http://www.zen.sh/
私は「覚り」を映像化できないかという夢のようなことを考えているので、参考になるかと思ったのだ。結果、参考にはならなかったのだが、中村勘太郎の道元は悪くなかった。
こういうテーマは切り口が無数にあるので、批評し始めると、みな、ないものねだりになるのだが、この映画で一つ残念だったのが、道元がなぜ支那(宋)に渡ったのかということを描いていなかったことだ。
「覚り」について学び始めると、すぐにたくさんの疑問が湧いてくる。ランダムに挙げると;
○そもそも「覚り」などというものがあるのか。人は覚ることができるのか。
○「覚り」があるとして、覚るためには、努力=修行しなくてはならないのか。修行しないで覚る方法はないのか。
○覚っても悲しみや苦しみがあるのなら(私は元旦の日記に、覚者は感受性が無くなるのではなく、むしろ豊かになるらしいと書いたhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20090101)、なぜ覚らなくてはならないのか。覚った人の悩みと、覚る前の悩みとはどこが違うのか。
○どんな努力=修行が必要なのか。その現実的なモデルは存在するのか。
などなど。
実は道元も同じような疑問を持っていたらしいのである。
道元は、私の尊敬する哲学者ケン・ウィルバーhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BCが「宇宙は150億年をかけて道元を生み出した」と言ったほどの世界的覚者である。
その道元が、我々と同じような初歩的な疑問を持っていたなんてウソだろう!と思われるかもしれないが、上に挙げた疑問は、初歩的というよりも根本的な問題である。
それが入宋、つまり道元が支那行きを決断した背景にあったのだ。
(つづく)