ここ2、3日、急に暑くなった。近くの公園に夏の花、タチアオイ(立葵)が咲いていた。(写真)
「どんな職業を選んだらいいの?お父さんはどうやって決めたの?」
娘からこう聞かれた。進路を決めなくてはならないのだという。とても答えにくい。というのは、私の仕事は、もともとの志望ではないからだ。
私は高校時代に『水俣 患者さんとその世界』というドキュメンタリー映画を観た。先月亡くなったばかりの土本典昭監督の作品である。「チッソ」の工場が、アセトアルデヒドを生産する過程で出る廃液を熊本県の水俣湾に垂れ流し、メチル水銀で汚染された魚介類を食べた多くの地域住民が被害を受けた。患者発生については50年代から報告されていたにもかかわらず、「チッソ」は廃液との因果関係を認めず、国も県も事実上、「チッソ」の側に立ってもみ消しに回り、悲惨な事態を拡大していった。国が因果関係を認めたのは68年になってからで、すでにそのとき「チッソ」はアセトアルデヒドの生産を止めていた。
棄民として苦しむ被害者の姿に、激しい義憤を持ち、その日、将来の職業として社会悪と闘う弁護士になろうと決意した。水俣病の患者一人ひとりを助ける医者もいいが、患者を生む社会の仕組みそのものを変える方がもっといいと考えたからだ。
だから大学は法学部にした。ところが入学早々、直接に社会の仕組みを変える運動、つまり政治運動に飛び込むことになる。「弁護士」への道からはずれた後は、学者になろうとして挫折、ひょんなことからテレビの世界に入った。つまり、現在は、いわば予期せざる結果なのだ。私だけでなく、周りを見回すと、たまたま縁があって今の仕事をしている人がほとんどだ。
そうはいっても、将来の職業を考えることは大事なことだし、まさか娘に「なるようになるさ」とは言えない。そこで次のような話をした。
自由に職業を選択できる環境にある場合、大きく三つくらい選択方法があると思う。
一つは、「好きなことをやる」だ。これは今の日本では、圧倒的に支持される考え方だ。
二つ目は、「得意なことをやる」。何か特技があって、幸運な場合、「君はこのために生まれてきたような人だよ」などと言われるケースだ。好きでやっていると上手になるものだが、必ずしも「好き」と「得意」が一致しない場合もある。すでに専門の技術が身についている人は、それを活用するのは当然だ。
村上龍の『13歳のハローワーク』は、「好奇心の対象をさがす」という本だ。「自分は何が好きか、自分の適性は何か、自分の才能は何に向いているのか。そういったことを考えるための重要な武器が好奇心です」という指摘はもっともに思える。好奇心を手がかりに「好きなこと」「得意なこと」を見つけようというのだ。
三つ目に、「やるべきことをやる」という考え方がある。例えば、こんな仕事をすれば社会に大きな貢献ができそうだと思って、憧れの仕事を目指すような場合だ。私のかつての「弁護士」志望はこのケースだ。これは「使命」という考え方につながる。
広く世界を見渡すと、職業を選ぶことのできる人は、割合からするとごくわずかだ。ゴミをあさってわずかな金を得る少年、体を売らざるをえない少女・・。きょう明日の糧に不安を持つ膨大な数の人々は、目の前に「仕事」と名のつくものがあれば即飛びつくしかない。
娘よ、今の「幸運な」悩みを、ありがたいと思って、もっともっと悩みなさい。