クラスター爆弾禁止が示す未来2

ダブリンでのクラスター爆弾禁止条約採択に私が注目するのは、これが《市民が国連に勝った》ともいえる快挙だからだ。私たちは、国連を乗り越えて進んでいくことができる時代に入ったのだ。
今回ダブリンで開かれていた「オスロ・プロセス」と呼ばれる軍縮交渉には、米露中などの大国が参加していない。なぜだろうと思った人も多かっただろう。実はここが今回の会議の面白いところなのだ。
クラスター爆弾禁止については、国連の軍縮交渉、CCW(特定通常兵器使用禁止制限条約)で話し合われている。もちろんこちらには米露中も入って、話し合いが行なわれている。ところがこれは全会一致が必要で、軍縮会議はいつもそうだが、大国の思惑が一致しないから遅々として進まない。だいたい、米露中とも、クラスター爆弾の主要な生産国、使用国であり、規制には最も後ろ向きな国々、つまり「悪玉」である。そして、いずれも国連の常任理事国。これじゃ国連が機能しなくなるのも当然だ。
国連なんかに任せておいたら、いつまでたっても事態は動かない。そこで、「やる気のある国でさっさと先に進みましょう」という、これまでの国際政治では見られなかった動きが出てきた。NGOが声を上げ、ヨーロッパ諸国を巻き込んでいった。
実は「有志国」とNGOが中心になって軍縮条約を作ったのは、これが2回目だ。
対人地雷禁止条約(=オタワ条約、99年発効)が最初のものだった。このときは、カナダが「有志国」となり、97年12月にオタワで122カ国が条約に署名したのだ。批准国はどんどん増えていま156カ国になっている。米露中はいずれも条約を締結していない。これを「だから実効性が疑われる」というように否定的に見るのではなく、「米露中を置き去りにして事態がどんどん進んでいる」と見るべきだ。今では米露中とも、対人地雷廃絶の声に逆らう言動はしにくくなっているのが現実だ。
この意味で、《市民が国連に勝った》のだ。
対人地雷禁止の運動がどうやってはじまったか、JCBL(地雷廃絶日本委員会)のサイトにはこう書かれている。
《1991年、アメリカのNGOの代表、ボビー・ミューラーさんが、ドイツのNGOで働くトーマス・ゲバウアーさんに1通のFAXを送りました。
2人は、カンボジアエルサルバドルで地雷被害者のために義肢や車椅子を作る仕事をしていました。こうした国々では地雷によって命を落とす人々、手足を失ってしまう人々がたくさんいました。しかもその数は増え続けるばかり。
2人は何とかしなければ、と立ち上がったのでした。
2人の呼びかけで、地雷除去や被害者支援をしているアメリカやヨーロッパの6つのNGOが「地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)」を始めました。ICBLの目標は、地雷を全面的に禁止することにありました。しかし、政府関係者やNGOの仲間からさえ夢のような話だと、まともに相手にしてもらえませんでした。誰もが「できるわけがない」と思っていたのです。 》http://www.jcbl-ngo.org/aboutlm/ottawa.html
NGOが本格稼動しはじめてから条約制定までかかったのはわずか5年という短さだ。クラスター爆弾禁止条約を作る運動は、対人地雷禁止条約制定にかかわったNGOがそのときに得た教訓を生かしてはじまった。
30日に採択されたクラスター爆弾禁止条約は、12月にノルウェーオスロで署名式が行なわれ、批准国が30カ国になった時点で発効する。
ノルウェーが「有志国」として手を上げて、NGOとともに運動を始めたのが06年。去年2月、「08年中に禁止条約を作る」というオスロ宣言に46カ国が署名。5回の会議で条約案を論議し、オスロ宣言からわずか15ヶ月で110カ国により条約採択にいたった。地雷禁止のときよりスピードがぐんと速くなっている。NGO関係者は「賛同国の増え方はドミノ現象だった」と言っているという。(毎日新聞31日朝刊)
「有志国」プラスNGOで進めるこの方式は、今後一段と注目を集めることだろう。
(つづく)