人生の意味−なぜ人殺しはいけないの?

 《なぜ人を殺してはいけないか?》
 これは10年前、いっせいに取上げられた問いである。きっかけは、97年夏、TBSの「ニュース23」でスタジオに呼ばれた高校生がこの質問をしたところ、そこにいた識者といわれる人たちが答えられなかったという「事件」だった。これについて、朝日新聞大江健三郎が次のように触れたことで問題が広がった。
 《テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席していた知識人たちは直接、問いには答えなかった。
私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子どもなら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。(略)
 人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。》(朝日新聞 97年11月30日 朝刊)
 大江氏は、こういう問いを発すること自体が問題なのだと言う。逆に言うと、自分は(いや誰にも)答えられないと認めているのだ。
『なぜ人を殺してはいけないのか?』(永井均小泉義之河出書房新社)というモロの題名の本(読んで失望させられた本だが)があるが、この中でも、「その学生を納得させるような答えがあり得るかというと、ぼくはないと思う」(永井)、「あり得ないというのは、はっきりしていると思います」(小泉)とはじめから答えを放棄している。
 高齢者の多いある酒の席で、私がこの話題を出し、どう答えますかと聞いたところ、「バカヤロウ!とぶん殴っておしまいよ」と一人が言うと、他のみなが、そうだそうだと頷いていた。
 たしかに昔の子どもはそういう質問をしなかったかもしれない。しかし、悪いのはその問いを発する子どもではなく、子どもがそう質問したくなるような今の時代が問題なのではないだろうか。
 私は映画「男はつらいよ」に漂う情感が大好きだ。なぜかと振り返ってみると、そこに顔を出す「古い日本」の安心感なのではないかと思うようになった。
 「寅ちゃん、そんなことしたらバチがあたるよ」とおばちゃんが怒鳴る。おいちゃんは「おいトラ!お天道様はお見通しだぞ。おれはご先祖さまに恥ずかしいよ」と泣く。そこには理論化・体系化されていないけれども、庶民にとっての「倫理」がはっきりと存在する。旅に出た寅次郎が柴又に帰ってくるように、彼には羽目を外しながらも戻っていく倫理があるのだ。「男はつらいよ」の魅力は、すでに失われ、取り返すことのできない「良きもの」なのだと思う。
 だが、我々にはもう「ご先祖様」も「お天道様」もない。物質科学主義の洗礼を受け、今さらそこに帰っていくことはできない。今は、次の倫理へと向かう、混乱した過渡期なのだろう。
 知識人たちがみな答えられないのは、時代の支配的な考え方に、自らがどっぷりとつかっていることを自覚していないからではないか。
(つづく)