人生の意味−「物質だもの」

身近な人が亡くなると、自然に人生の意味を考える。
その時、我々はいま「意味」を失った時代に生きていることを感じる。それは圧倒的な物質科学主義の空気に満ちた時代。「結局は人間もモノなんだ」という認識が常識になっている時代だ。「心」でさえ、脳のシナプス間の化学的または電気的信号の伝達が生む現象と理解される。水を電器分解すると酸素と水素になる「反応」と同じ。こうして、人間は心も体も物質に還元される。
ところが、物質にはどこを探しても「意味」はない。
ここにダイヤの原石と砂岩の石がある。この二つには、人間が値打ちをつけないかぎり、ただの物質としては、価値の上下はない。そもそも物質界に「価値」はない。
この二つが激しくぶつかって、砂岩の方が砕け散ったとする。そこに善悪はない。ダイヤが悪いことをしたわけではない。物質なのだから。
では、ここに大きくて力の強い男と小さな弱い男がいる。大男がもう一人を殴って殺したとする。これは、一つの物質がもう一つの物質を破壊しただけだ。善悪はないことになる。相田みつを風に言えば、「ぶっしつだもの・・・」
現代の最大公約数的な人生観はこうなる。
《人間も結局はただの物質であり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。そして、国や村や家などのために犠牲になるのは、バカげたことで、個人の権利こそ大事なのだ。だから、人間は自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利なのだから》http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/e/cc9e7fee6c53740d065ac02f1015e5d9
そして、時代の空気を胸いっぱいに吸って育つ子どもたちは、ある日、耐え切れずに、大人に向かってこう尋ねるのだ。
《なぜ、人を殺してはいけないの?》
(つづく)