私がここにいるわけ その2③

 プーチン大統領が核の脅しを公言するなか、ウクライナの隣国、モルドバで怪しい動きが・・。

 ロシアの大統領選挙を前に、2月29日、プーチン大統領、内政や外交の基本方針を示す年次教書演説を行い、ウクライナでの戦闘を「国民の主権と安全を守るため」だとして侵攻を続けると表明、さらに「戦略核兵器は確実に使用できる準備が整っている」と世界を脅迫している。

NHK国際報道より

 その一方で、ウクライナの隣の旧ソ連構成国のモルドバで、国内の親ロシア派が相次いでロシアに「保護」を求める動きをみせている。

 2月28日、モルドバ東部を実効支配する親ロシア派勢力沿ドニエストル共和国(国際的には独立国と認められていない)の議会が「モルドバ政府から圧力を受けている」として、ロシアに「保護」を要請した。沿ドニエストル共和国」は1990年にモルドバからの独立を一方的に宣言した地域で、20万人以上のロシア系住民が暮らし、ロシア軍も駐留している。

NHK国際報道より

沿ドニエストル地方はウクライナモルドバに挟まれた地域

 モルドバ政府の報道官は「沿ドニエストル地方で緊張など高まっていない。プロパガンダに過ぎない」と反論している。

 また、親ロシアを掲げるモルドバ南部「ガガウズ自治共和国のグツル首長も3月6日、ロシア南部のソチでプーチン大統領と会談、モルドバからの圧力を理由に支援を求めた。ガガウズ民族が住むこの自治区は、モルドバ中央政府EU加盟路線に反対しており、強い親ロシア路線を採っている。

ガウス地方。自治共和国として大きな自治を認められている

 アメリカのシンクタンク戦争研究所は、EU=ヨーロッパ連合への加盟を目指すモルドバを揺さぶるための“ハイブリッド作戦”として、「ロシアが2つの地域を利用しようとしている」と指摘しているが、それだけなのか。

 ロシアはこれまで、ロシア系住民や親ロシア派住民が抑圧されているなどの理由をつけて他国への軍事侵攻を繰り返してきた。沿ドニエストル地方はウクライナと接しており、不気味な動きとして警戒する必要がある。

 モルドバの危機感は強い。モルドバ共和国のサンドゥ大統領は7日、フランスでマクロン大統領と会談、両国の防衛協力に関する協定を締結した。サンドゥ氏は「ロシアがモルドバの民主主義を弱体化させようとしている」と指摘し、欧米への接近を図ることでロシアの脅威に対抗していく姿勢を改めて示した。

 要注目。
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「私たちがここにいるわけ~高校生に語るコスモロジーつづき。

《なぜ人を殺してはいけないのか?》

 さらに言うと、日本人は、人として何をしていいか、してはいけないかという倫理もあいまいになっている。宙くん、「なぜ人を殺してはいけないか」、答えられる?

 あるテレビの特別番組で、スタジオに高校生を招いて戦争について語り合う生放送があった。そこで茶髪の高校生が、「なぜ人を殺してはいけないのか分からない」と発言して議論になった。で結局、スタジオにいた著名な識者たちが誰も答えられなかったんだ。これは大きな話題になって、雑誌が特集を組んだり、その題名の本が何冊も出たりした。

 なぜ人を殺してはいけないかがわからないとなると、もう倫理というものが成り立たなくなっちゃうね。

 今の日本では、倫理とか道徳を語ること自体が、かっこ悪いことのように思われてるけど、最近の犯罪を見てると、ときどきゾッとすることがある。2000年代には「人を殺してみたかった」、「人を解剖してみたかった」とまるで実験でもするかのような感覚で殺人をする若者が出てきている。昔なら、犯罪というといわゆる不良の犯行だったのが、遊びのように人を殺す最近の殺人犯が、はた目にはごく普通の“いい子”だったりする。不気味で背筋が寒くなるよ。

コスモロジーとは》

 実はこうやってぼくが宙くんに毎回話をしているのは、宙くんに心が健康で元気になるコスモロジーを持ってほしいと思ってるからなんだ。“コスモロジー”って耳慣れない言葉だと思うけど、「世界がどういう秩序になっているかということを語る言葉の体系」だといわれてる。ぼくたちの人生観のベースになる、この世の中がどういう成り立ちでできているかという世界認識のことなんだ。ぼくたちはコシモロジーにもとづいて、生き方を決めていく。え、そんな難しいこと考えないって? いやいや、人はだれも、意識しなくても何らかのコスモロジーがあるはずだよ。

 これまでの長い人類の歩みのなかで、コスモロジーは伝統的に宗教が担ってきた。例えば、キリスト教の場合だったら、コスモロジーはこうなる。

 まず人はどこから来たのか? それは神が自分の姿に似せてつくってこの世に送り出したとされる。人はどう生きるべきか? これの答えは、人はこの世に神の国を実現するために生きるということになる。そして、死んだら神の元へ帰る、具体的には世界が終わる時、すべての人が神の審判を受け、生前の行いによって永遠の命の国に行くか地獄行きになるか決められる。神という絶対のものに支えられてるコスモロジーだよね。

 キリスト教を信じる人なら、このコスモロジーで、人が生きて死んでいく意味は何か、何のために生きているのか、そういう根本的な人生の問いにちゃんと答えられる。なぜ人を殺してはいけないのか?と問われれば、神の子同士が殺しあうなんて神が許さないし、最後の審判で地獄行きになっちゃうから、とはっきりした理由がある。だから、人は安心して生きて死んでいけたし、たしかな倫理感を生き方の指針にすることができた。

 でも、こうした伝統的・宗教的コスモロジーは、近代の合理主義によってだんだん崩されていく。宙くんも歴史の授業で教わったと思うけど、近代科学がキリスト教の教義とぶつかったんだ。キリスト教側からの反発は激しく、地動説をとなえて火あぶりの刑になった人もいたし、進化論も教会に弾圧された。でも結局、科学が勝利して、しだいに伝統的・宗教的コスモロジ―に替って、近代合理主義のコスモロジーが登場してきた。それによると「神はいない。人間とモノだけがある」となって人を超える絶対のものがなくなってしまう。すると「自分の存在には絶対の意味はない」し、倫理なんてその時代その時代に人が勝手に作ったものに過ぎない、「絶対的な倫理はない」となってくる。この世に絶対の意味はないという考えをニヒリズムという。でも、生きてる生身の自分が楽しい悲しい、おいしいまずいと感じるのはたしかだから、自分の快不快を基準に生きるエゴイズム、快楽主義に行き着く。結果、人が生きて死んでいく意味がわからなくなっているというのが、近代合理主義のコスモロジ―の決定的な欠陥だと思う。

(つづく)