人生の意味−日本のアジアの子

takase222008-05-05

 おととい、ネパールで亡くなった古賀美岐さんのお母さんを自宅にたずねた。美岐さんは一人っ子のうえ、小さい頃お父さんが亡くなっている。美岐さんに先立たれたお母さんの喪失感の大きさは如何ほどのものか。
 私は取りとめもなく、美岐さんにまつわる昔話を一方的にしゃべったのだが、お母さんは熱心に聴いてくださった。親は大きくなった子どものことを意外に知らない。それぞれの心の中にある故人の思い出を、なるべく多く遺族に伝えたいと思ったのだ。
 ところで、「人生に意味はあるのか」という質問を大学生に投げたところ、以下のような回答がかなりポピュラーだったという。
 《人生の意味は、他の人に影響を与えたり、次の世界に何かを残していくことにある。そしてその影響は、自分が死んだ後も何らかの形で残り続けるであろうから、人生から意味はなくならない》。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』講談社より)
 たしかに身近な人が亡くなると、その人の影響や思い出が自分の心に残っていくという実感を持つから、こういう考え方が支持されるのはよく分かる。
 ただ、シニカルなことを言うと、100年かそこら経ってしまうと、故人の「直接的な」影響はほぼ消えうせると言っていいだろう。さらに、いま直面する近未来の危機を乗り切ったとしても、わずか10万年前に出現した我らホモサピエンスが、一定期間内に滅亡するのは確実だ。もっと先にいくと、太陽の寿命は100億年でそのはるか前に、地球は消滅している。その上で、「意味」を見つけることができるかということになる。
 おととい、身内の祝い事で山形県の庄内に行く機会があり、酒田市土門拳記念館を回った。土門拳は、山形県が生んだドキュメンタリー写真の巨匠である。「筑豊のこどもたち」が有名だが、それより前、50年代前半に東京の下町などで子どもの写真をたくさん撮っていた。記念館にあったそれらの子どもたちの笑顔の写真を見て、ちょっとした衝撃を受けた。まるで《アジアの子ども》の笑顔なのである。
アジアを旅行すると、「忘れてしまった何かがある」というわけで、日本人はシャッターを押しまくるが、その被写体はたいてい子どもだ。貧しくつらい暮らしのはずなのに、彼らの笑顔に明るさと強さを見て、圧倒されるのだ。
 ところが、マニラのスラムやインドの雑踏で見るその笑顔が、半世紀前のこの日本にあったのだ。
 この子らが「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と尋ねるというのは考えにくい。