ベルリンの壁崩壊秘話−2

「証言でつづる現代史−こうしてベルリンの壁は崩壊した」は、東独体制変革の過程を、内部の変革の芽に注目して、秘められたエピソードを交えながら描いている。以下、前編を紹介する。
「壁」崩壊のときの集会で、ある都市が特に称えられた。東独第二の都市、ライプチヒだった。ライプチヒは18世紀半ば、世界初の市民によるオーケストラを生み出した、自治意識の高い町だったようだ。
重要な役割を果たしたのはキリスト教会だった。政権党のドイツ社会主義統一党共産党)は、市民へのガス抜きとして、教会に一定の自由を認め、そこは人々にとって、許可なく「集会」ができる場所となった。80年代はじめ、ミサイル配備に端を発した核危機で東西を不安が覆った。聖ニコライ教会では、82年9月から、月曜毎に「平和の祈り」という会を開き、反戦・環境・人権などに関心を持つ市民に、活動場所を提供し、自由闊達な議論が行なわれた。こうした変革をめざす動きは後に全国に広がっていく。
85年、ゴルバチョフソ連共産党書記長になり「ペレストロイカ」(改革)を打ち出す。89年5月、東独では統一地方選挙があり、共産党の「議席配分」に98.85%が賛成したと発表された。ところが、教会に集る人々が投票を監視した結果は、反対や棄権が場所によっては2割にも上るというものだった。この結果を独自に配布したところ、国民に反発の機運が広がった。
この夏、バカンスを理由に多くの東独国民が、ハンガリーオーストリア国境に殺到、そこから西側に脱出する事態になった。共産党は「去る者のために涙は不要」とこれに全く配慮を見せなかった。
たくさんの同胞の流出、これに全く意に介さない当局。この事態に市民の危機感がつのり、デモが始まった。9月4日月曜日の夜、聖ニコラス教会で「平和の祈り」を終えた人々が静かに行進をはじめたのだ。
言論・集会の自由、旅行の自由を求めるこのデモが、一ヵ月後の10月9日には、なんと7万人という大行進へと結実する。デモ・集会の動きは全国へと波及、党中央の若手政治委員らが反逆を起こし、10月18日ホーネッカーを退陣に追い込む。
こうしてライプチヒのデモは、「はじめて非暴力で成功させた蜂起」となり、民主化の合図として決定的な意味を持ったのだった。新指導部への移行期のゴタゴタで、権力内部の指揮系統が乱れる中、11月8日のベルリンの壁崩壊は起きている。
「前編」の見せ場は、緊迫する状況のなか、7万人デモがいかにして平和裏に成功することができたかを描くところにある。末期独裁権力がいかにして崩壊していくかが、よくわかる。7万人デモの2日前の10月7日、建国40周年式典にゴルバチョフが来て「世界が変化していることを認識しなければならない」と演説、東独当局を批判する。ゴルバチョフ歓迎デモが起き、多数の負傷者が出る。共産党反革命を武力で抑えると明言、人々は9日のデモが決定的な日になると分かった。改革派は2万5千枚という大量のビラを撒き、決して暴力に訴えないよう呼びかけた。
一方、体制側は治安隊8千人を配置し、病院は負傷者を想定して血液を用意した。
前日の8日、共産党の政治局員、尊敬を集めるクルト・マズアという指揮者ら様々な人々が流血を避けるべく、懸命の努力をする。マズアと地方党幹部が当局と市民との「対話」を呼びかけるアピールを発表。しかし、デモ当日も緊迫した状況は続いていた。屋根の上には狙撃兵が配置された。
聖ニコライ教会から、人々はローソクを手に歩き始めた。ローソクを持つと、棒や武器を持てなくなる。どんどん人は増えていく。市内の80箇所のスピーカーからは、「対話実現のため、冷静に行動してください」というマズアの録音された声が流れる。
デモ隊が近づくなか、治安隊は阻止すべきか退却すべきかの決断を迫られていた。迷う市の党組織は中央の政治局に電話をかけるが、指示は来ない。7万人のデモ隊は「我々が人民だ」というスローガンを叫んで行進してくる。結局、治安隊は衝突を避けて退却し、デモは平和的に成功した。
デモが終わるころ、「ゲバントハウス」という由緒あるコンサートホールでは、マズアが指揮するブラームスが高らかに鳴り響いていた・・・
この番組は、ホーネッカーの次の国家評議会議長になったクレンツら共産党のトップから教会で地道な活動を続けてきた市民まで広く丹念に取材して、壮大な歴史のうねりを再現している。この過程は、たぶん日本語の文献ではほとんど紹介されていないだろう。
ドラマとして面白いだけでなく、とても勉強になった。
ここから、金正日体制打倒に向け、何かヒントが得られるだろうか。
(続く)