仕事が一段落したので、映画『ミスター・ランズベルギス』を観に行く。
「リトアニア独立の英雄ランズベルギスが語る熾烈な政治的闘争と文化的抵抗の記録」で上映時間は4時間を超える。観るには覚悟がいる。
ソ連邦から最初に独立を宣言したのはリトアニアだった。
1990年3月11日、最高会議で「リトアニア国家再建法」を賛成124票、反対0、棄権6で可決し独立を宣言する。
ゴルバチョフはこれを認めず、リトアニアを経済封鎖し、さらに91年1月には軍事介入に踏み切った。市民は最高会議やテレビ塔などの前に集まり人間の盾となってソ連軍に抵抗した。ソ連軍が民間人に発砲し死傷者も出た。(血の日曜日事件)
ゴルバチョフに対する「善人」イメージがこなごなになる。言論の自由を多少認めたが、ソ連邦という体制をひっくり返す気はなかった、むしろガス抜きして体制を擁護しようとしたことが明らかになる。
こうした弾圧にも人々は屈せずに91年9月、ついにソ連に独立を認めさせた。このリーダーが、ピアニストで国立音楽院の教授だったランズベルギスだった。ソ連軍の介入に対して、最高会議を守るために志願兵をその場で募りバリケードを作るなど防衛態勢を立ち上げるが、大きな戦闘は起きず、多くの市民がソ連兵の前に立ちはだかって軍事行動を封じる非暴力的闘争が大きな役割を演じた。
映画はランズベルギスの語りにアーカイブ映像で歴史の流れをたどっていく。この歴史自体がドラマチックなので引き込まれていく。
軍隊まで派遣して独立を封じようとしたゴルバチョフがノーベル平和賞を受賞し、その一方でリトアニアの人々がソ連軍に「ファシスト!」と罵声を浴びせるシーンは、それだけで歴史の「真実」を訴えかける。
ランズベルギスという人物がまた実に魅力的で、もとはピアニストで活動家っぽくない。人情味があってかつ冷静沈着。これなら苦境のときでもみんながついていくだろうなというリーダーなのだ。
この映画は歴史の記録であるとともに、ランズベルギスというとても魅力的な人間の肖像でもある。
危機や混乱のとき、歴史はすごい偉人を生み出すことがあるが、彼はまちがいなくそういう人だ。90歳なのに若々しくウィットに富んだ話しぶりがいい。
監督はセルゲイ・ロズニツァで、1964年ベラルーシ生まれ。ウクライナのキエフで学び数学士の資格をとり人工知能の研究をしていたという。91年のソ連崩壊の年からモスクワで映画を学び始めたという異色の経歴をもつ。
私は今年『ドンバス』、一昨年『アウステルリッツ』、『国葬』、『粛清裁判』を観ていずれも素晴らしかった。
ロシア(ソ連)が他民族を支配しようとありとあらゆる手段で介入し、それに「自由」を合言葉に人々が抵抗する姿・・・この映画を観ると、誰もがウクライナを思い浮べると思う。映画ではおもに「非暴力」での抵抗が描かれる。
いま、国防をめぐる政策が注目されるなか、ランズベルギスの見事な外交力、政治力と独立までの一連のせめぎあいは、今後の日本の進路を構想するうえで非常に参考になる「教材」だと思う。その意味でも多くの人に観てほしい映画だ。
リトアニアは行ったことがある国だが、知らないことが多く、勉強しようと思って映画のパンフレットを買った。
このなかで一つ引っかかったのは、映画監督の想田和弘氏が「たとえ強大な軍事力を有する帝国主義的大国であっても、非暴力の政治闘争で打ち負かすことができる」こと描いた映画だとし、「私たちが目指すべきは、米国やロシアや中国といった軍事大国ではない。理不尽な力に対して力で対抗することを選んだ、ウクライナでもない。私たちがお手本として研究すべきは、非暴力で独立を果たしたランズベルギスとリトアニア国民であろう」と主張していたことだ。
「ウクライナも非暴力で抵抗せよ」とは想田氏の持論だが、ランズベルギスは同じパンフレットの沼野充義氏との対談で、ウクライナについていま「平和条約」を言うべき時ではないとし、こう語る。
「今軍事行動をなんとか止める交渉を始めなければならないなどと言うのは、欺瞞です。なぜなら、攻撃を仕掛けた国、つまり侵略者は、広大な領土を占領し、諸都市を破壊し、何十、何百、いや何千という人々をウクライナの地から追い出したのです。それを今ここで止めて凍結させるなんて、強盗の収穫、追剥の収穫になってしまうでしょう」。
また、NHKのインタビューでランズベルギスはこう語っている。
「武力で屈強な巨人(ソビエト)に対抗するのは絶望的でした。自殺行為のようなものです。しかし道徳的な方法で闘うことは効果的でした。ソビエトは軍事力を行使したことで世界を前に苦しい立場に立たされたのです。“リトアニアが武力を使うので私たちもそれに対抗している”とは主張できなかったのです。」
リトアニアでは非暴力で成功したが、ウクライナでは困難だと彼はいう。それは当時リトアニアが対峙したゴルバチョフとウクライナを攻撃するプーチンには決定的な違いがあるからだ。
「(当時は)平和的な言葉で自分の主張ができました。ゴルバチョフの周りには民主主義的に考えている側近がいたのです。プーチンの周りにはこのような側近がいません。民主主義を考えている側近が全滅させられています。絶対的な独裁者として行動するよう助言する側近ばかりです。」
また、90年当時は「50万人のモスクワ市民がリトアニアを守る抗議デモに参加しました。今日では全く想像もできません。ウクライナへの侵攻に対し、モスクワでデモに参加する人は5人もいないでしょう。当時は正義の考え方を持っていたロシア人がたくさんいました。彼らはリトアニアへの侵攻をやめるよう求めていたのです。」
安全保障、国防というのは「相手」がある。闘いの手段、方法は、敵がどのような相手か、また具体的な条件や状況のなかで柔軟に考えるべきだろう。
なお、血の日曜日事件をたまたま居合わせた日本テレビのクルーが撮影しており、ディレクターは私もよく知る中山良夫さんだったこと、この映画にもその映像が使われていることをはじめて知った。
銃弾の飛び交う現場での撮影は怖くなかったかと聞かれ、中山さんに同行したビデオエンジニアの石渡さんが「大勢の市民が何も持ってないのに、ソ連軍に向かって『帰れ、帰れ!リトアニア、リトアニア!』と叫んでいるのですよ。しかも僕らより前線で。(略)僕らより危険な場所で大勢の市民が集まって声を出して抗議しているので、全く恐怖はなかったですね。兵士が機関銃で威嚇射撃をしても、戦車が空砲を撃って体が宙に浮いても、市民の人たちは全くびくともしないのですよね。その中にいたら自分たちも何も怖くなくなるのです」と答えているが、非暴力抵抗自体が、体を張ってあくまで闘い抜くという市民たちの強い決意に支えられていることがわかる。
(つづく)