報道と誤解―「どっこいしょ」3

山形東高校出身の著名人に作曲家の服部公一さんがいる。
服部さんは1933年生まれで、48年に新制高校制度がはじまる直前の「山形中学校」に入学した。服部さんには、そのころの思い出を書いたエッセイがあり、松木先生が登場する。題はなんと「やっこらしょ、どっこいしょ」である。先生は40歳前、教師として油の乗った時代だったはずだ。エッセイの冒頭から、その授業のすさまじさがユーモアをまじえて描写される。
松木先生の英語の授業には、中学1年の生徒は毎時間死に物狂いであった。先生の質問にあやふやな返答をしようものなら、その罵詈雑言と共に使い古しのちびたチョークが、なさけ容赦なく機関銃のたまのように飛んできた。しかし、そのコントロールは必ずしも確かではなく、しばしば、その標的たる生徒の隣近所の者にあたることがあったが、そのとき先生少しもあわてず、
「お前でない。その隣の服部だ。おれのかわりにそのなまけもののヤロば、くらすけ(ひっぱたけ)」
と不幸にしてとばっちりをくらった生徒に、お申しつけになるのであった。(略)
 したがって、松木先生の授業の始まる前の休み時間は、誰一人室外に出ず、戦々兢々のうちに秒きざみの予習をし、気の弱いものは、もはや上がり気味で、赤くなったり青くなったりしているていたらくであった。》

そこに同じクラスの友人Mが登場する。
《不幸にしてMは背の低い少年であったから、最前列教卓のすぐ前にいつも座っていた。したがって、ノッポで一番後の席の私などより、松木先生の発する殺人光線のボルテージがずっと高い。(略)松木先生の授業の前は、その席のせいか、あるいは生来のまじめさの故か、いつもかなり緊張して、細心の下調べをしていた。そして始業のベルが鳴るとつとめて気をひきたたせるようにおどけた調子で、
「やっこらしょ、どっこいしょ」
 と調子をつけてドスンと椅子に腰をかけ、この苛酷な授業を待つのであった。
 Mのこのひょうきんなかけ声は、近くの席のもののまねるところとなり、そこここで、「やっこらしょ、どっこいしょ(・・・ドスン)人事を尽くして天命を待つ、どうぞ松木先生おてやわらかに」という風に使われ、この授業の前のはやり言葉になっていた。

意外にも「どっこいしょ」は松木先生のオリジナルではなく、Mの創作だったという。
服部公一さんは、学校制度が旧制中学から新制高校に変わる時期にあたっていた。そのため、Mとは《合計6年間という異例に長い期間のクラスメートであった》。フットボールでのファイトマンぶりや、《おやじさんは戦前からブラジルに行ったきりで、お袋さんと二人でつましく暮している》ことなど、Mの詳しい人となりが紹介され、とても親しい間柄だったようだ。
「どっこいしょ」の創始者、Mとは何者なのか。(つづく)