「人生の目的はしあわせ」でいいのか2

 袴田巖さんの「無罪」判決がまた遠くなった。

 「再審公判」で、検察側は袴田さんの有罪を立証する方針だという。これまでの審理で裁判所は重要証拠の「5点の衣類」について“ねつ造”を示唆し、それが再審開始につながったのだが、検察側は“ねつ造”の指摘に反論する方針だ。死刑事件だから面子をかけてでも、ということらしい。「無罪」判決までの時間がさらに引き延ばされることになる。袴田さんは87歳。検察の今回の方針には多くの非難の声があがっている。

 ジャーナリストの青木理さんは、袴田事件から考えるべきことはたくさんあるとして、以下を指摘した。

 「冤罪のパターンはだいたい同じ。今回もそうだが、再審請求の段階でようやく「新しい証拠」が出てきて、それでやっぱりおかしいじゃないかと分かる。

 本来、証拠というものは警察や検察が公権力と税金を使って集めるわけだから、我々の共有物だ。だからちゃんと早く示すべき。また検察が抗告をして裁判を引き延ばすことをやめさせるべきという議論もあり、再審のありようも考えなくちゃいけない。

 それから、司法が間違えることを考えると、死刑してしまったら取り返しがきかないので、死刑制度のありようも考えなくちゃいけない。」(16日の「サンデーモーニング」でのコメントより)

袴田さんの衣類だとされた「証拠」は捏造と判断され再審が決まった(サンデーモーニングより)

 再審ではじめて「新しい証拠」が出てくるというのは、袴田事件の場合は、弁護士側の証拠開示要求に対して、袴田有罪の証拠「5点の衣類の写真」のネガフィルムが、抗告審理ではじめて出てきたことを指す。このネガフィルムは、静岡地検が一審当時から「存在しない」と主張し続けて来たのだが、実際には静岡県警で保管されていたのだった。検察側に不利な証拠は隠しておくということを禁じ、初めから公平に証拠を提示させる制度改革がぜひ必要だ。
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 前回のつづき。

 「人間死んだら終わり」なのだから「せいぜい生きてるうちに楽しもう」という人生観が支配的になっている現代日本。だから、「人生の目的はしあわせ」になる。ここでの「幸せ」とは、「私」あるいは家族など「私たち」(「私」の延長)の「幸せ」だ。

 私の子ども時代には見られなかった、こういう利己主義的で軽い人生観が日本に浸透してきたのは、たぶんここ30年くらいだろう。

 この人生観によれば、自分が幸せでなくなったら、つまり人生が思い通りにならずに不幸になったら、人生の目的は失われる。だったら「生きてる意味ない」、となり「死んだ方がまし」と自死へと向かっても不思議ではない。

 苦しくてたまらない人が、なお生き続けるとすれば、その動機は、「生きてれば、いつかまたいい日がくるかもしれない」との期待くらいしかないだろう。脆弱で刹那的な人生観である。

 昔の人たちは違っていた。
 中村哲医師が、アフガニスタンのクナール川から用水路を引くにあたって取り入れたのは、故郷、福岡県の朝倉市にある山田堰などの江戸時代の農業技術だった。山田堰、堀川用水、揚水車群は2014年に「世界灌漑遺産」に登録された農業遺産で、今も現役で稲作を支えてい農地を潤している。

朝倉の三連水車。ここには揚水水車群があり、これも中村さんはアフガニスタンに導入した。(写真は朝倉警察署のHPより)


 私はこの灌漑遺産の記録映像を制作するため、帰国していた中村さんを山田堰の前でインタビューしたことがある。中村さんは、200年以上前、たくさん我々のご先祖が、子々孫々のためにと、困難を極めた工事を行ってこれらの施設を造ってくれたことに感謝すべきだと語っていた。

朝倉市の水車大工、妹川幸二さんに揚水水車の構造を教わる中村哲医師(筆者撮影)


 植林などもそうだが、何代も先の村の子孫たちが少しでも幸せな暮らしができるようにと汗を流すことをやりがいに感じていたに違いない。今の自分だけいい目をみたいなどと思っていたら、無償で何年もかかる難工事をやり遂げることはなかっただろう。

 では、中村さんは何のために生きるというのだろうか。

 「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。人は人のために働いて支え合い、人のために死ぬ」。こう言い切っている。

 そして「この中で、馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ」という宮沢賢治『どんぐりと山猫』の一節を引いている。まるで、同じ宮沢賢治の『雨にも負けず』のような生き方である。

 中村さんが大きな影響を受けたなかに精神科医のビクトール・フランクルがいる。
 思春期の中村さんは強迫神経症で、人前に出ると緊張して顔が赤くなって話せなくなったそうだ。そこで高校時代から人の心のありように関心をもち、フランクルの本を読んで感銘を受けたようだ。

takase.hatenablog.jp

 フランクルは言う。

 「しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません」
 また、「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、生きる意味を問うてはならないのです」ともいう。

 どういうことなのか。以前このブログで紹介した言葉だが、再び考えてみたい。
(つづく)