ホロコーストの揶揄で問われる日本の人権感覚

 昨夜のオリンピック開会式、関係者が次々消えていく中、どうなるかとテレビをつけた。40%超の視聴率だったようだが、私のように心配で観ていた人も多かったのでは。

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開会式のプロジェクションマッピング朝日新聞より)

 プロジェクションマッピングで始まり、まあ、とりあえずやれてるようだなと途中でテレビから離れた。あとで、最終聖火ランナー大坂なおみ選手だったと知り、そこだけは観たかった。
 
 一夜明けて今朝の「天声人語」から。
《平和を求め、差別を許さない。五輪をそんな社会運動のようにとらえるのが間違いなのかもしれない。あらわになったのが、巨大スポーツ興行としての顔である。東京五輪の最大の遺産になるのは、五輪へのまなざしの変化だろうか。▼興行であっても、もちろんそこには興奮があり、感動がある。生身の人間が極限に挑む姿があるからだ。それでも同時に考え続けたい。東京という場を借りただけのようなこのイベントは、果たして必要だったのかと。》

 「東京という場を借りただけ」のイベントという表現に、そのとおりと同意する。五輪を東京でやる意義が分からないままだからだ。

 スポーツ関係では、いつもスポーツジャーナリストの二宮清純の意見に注目している。

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二宮清純氏(朝日新聞

 彼は2週間ほど前、ある番組でこんなコメントをしていた。
 「組織委員会も東京都も、コロナ禍の新しい形のオリンピック、“東京モデル”を打ち立てると言っていたので、私は非常に興味を持っていたし、期待もしていた。ただ、その画がなかなか見えてこない。そんな中で、一つの答えを示してくれたのが、番組でご一緒した加藤浩次さん。“無観客の、静寂の緊張感をどう映像クリエイターが描くのか?”と言われて、面白いなと思った。
 本当は組織委員会なども含め、そういうことを提案すべきなのに、なんとなく“1964年の東京オリンピックの夢をもう一度”みたいに、“旧来型”を追っている気がする。(略)今からでも遅くないから、見たことのない、“こういうやり方があるのか”、というものを見せてくれれば、日本の評価にも繋がると思う
https://news.yahoo.co.jp/articles/f3aaf0f0fc621b9e80c3cca6047e338e58e0e0e3

 なるほど。今朝の「ウエイクアップ+」に出演した二宮氏は、まだ五輪をなぜやるのか、意義が見えていない、意義が分からないから遠心力が働く、求心力をつくるには意義をはっきりさせることだ、大会期間中、意義を問い直して発信し続けよと語った。

 菅首相は、1964年の東京五輪の思い出話をさかんに出すのをみてもわかるように、五輪一般、スポーツ大会一般の意義―アスリートが持てる力を出し切って競うことはすばらしい、とか―しか語っていない。
 いま、なぜここ日本の東京で開かなければならないか、この意義がいっさい明らかにされないまま、ダラダラと今に至っているのだ。

 この責任は、これから繰り広げられるスポーツ競技がおもしろかろうが、問われなくてはならない。
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 開閉会式のディレクターの小林賢太郎氏が解任された件で、これは日本社会全体にかかわる問題だなと思うようになった。

 問題とされたラーメンズのコントは1998年のもので、ネットに動画が流れて騒ぎになった。

www.youtube.com

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ラーメンズ。右が小林氏

 設定は番組スタッフの会話。セリフは以下。

小林:じゃあ、トダさんがさ…ほら、プロデューサーの。

片桐:ああ、ああ

小林:作って楽しいものもいいけど、遊んで学べるものも作れって言っただろ。

片桐:ふん

小林:そこで考えたんだけど、野球やろうと思うんだ。今までだったら、新聞紙を丸めたバット、ところが今回はここに「バット」っていう字を書くんだ。

片桐:うん、うん

小林:今までだったら、ただ丸めた紙の球。ただ、ここに「球」っていう字を書くの。

片桐:うん、うん

小林:そして、スタンドを埋め尽くす観衆。これは人の形に切った紙とかでいいと思うんだけど、ここに「人」っていう文字を書くんだ。

片桐:うん

小林:つまり、文字で構成された野球場を作るっていうのはどうだろう。

片桐:ああ、いいんじゃない。じゃあちょっとやってみようか。ちょうどこういう人の形に切った紙いっぱいあるから。

小林:あー、あのユダヤ人大量惨殺ごっこやろうって言った時のやつな。

片桐:そう、そう、そう。トダさん怒ってたなー。

小林:放送できるか!ってな。

 

 問題のセリフで客席がワッとわいている。
 たぶん、私をふくめ、多くの日本の市民は、一ヵ所だけポロっと出てくるこのセリフを聞いて、ちょっと危険な言い方だが、まあ、コントだから許されるか、しかも、不謹慎さをプロデューサーから「放送できるか!」と怒られたという流れになっているから、なおさら「セーフ」ではないかと思ってしまう。

 しかし、世界にはこれは通用しない。
 抗議声明を出したアメリカのユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のエイブラハム・クーパー副代表は「ナチスの犠牲者の家族が感じていることを日本の方にもわかってほしい。北朝鮮に拉致された人たちのことをお笑い芸人が冗談にしたら、日本の人びとはどう感じるだろうか」と語っている。(朝日新聞23日朝刊)

 客がこの表現で笑い、いままで問題にされずに来たことは、小林氏一人の問題ではなく、日本社会が、世界の人権、人道の水準から大きく立ち遅れていることを示している。

 「20世紀の国内消費用の世界観が海外で通用するわけではない。今回の騒動は日本の大衆娯楽のガラパゴス化を露呈した」(佐藤卓己京都大学教授)

  中学・高校での現代史教育が不十分だと以前から言われてきたが、日本の歴史認識、人権感覚の水準が問われている。なんとかしないと・・・。