新緑のなかを自転車で走るとうれしさがこみ上げる。
緑色は目への負担がもっとも少ない波長帯で、人をリラックスさせるという。
これは、光合成に対応した人間の生得的反応ではないだろうか。植物の光合成こそ地球上で唯一栄養をつくりだすものであり、一瞬たりともなくてはならない酸素を供給してくれる働きなのだから。
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20世紀の最大の災厄、全体主義。
全体主義とはいったい何ものなのか。その「右」と「左」を代表するナチズムと「共産主義」は、どこが違って、どこが共通なのか。
全体主義研究は(とくにナチズム研究は)膨大な蓄積があり、アプローチもさまざまだ。アーレントはナチズムの「形成史」から入っていった。
オーソドックスな手法として、ナチスと共産党、それぞれの「組織論」を研究することもあるだろう。
歴史となると、たくさん勉強する必要がありそうだし、組織のあり方もいいけど、もっと深いところに何かありそうな気がする。とりあえず、全体主義の思想の「腑分け」=解剖をやってみたい。
と言っても、どこから手をつけていいやら・・。人を大量に殺していることから、まずは「人間観」から見ていこうか。
ということで調べると、意外なことに驚いた。
ナチズムと「共産主義」は、「ヒト」とは何か、という根本的なところで正反対の見方をしているようなのだ。
ある人がどういう人間になるかを決めるのは、生まれる前の「遺伝」か、それとも生まれてからの「環境」か。これは古くからの問いである。
ナチズムは、人は「遺伝」で決まると考えている。
ナチスが強烈な人種イデオロギーをベースにしていたことは知られている。「人種・移住本部」などという部局まであり、「最終解決」すなわちジェノサイドを実行したのは、ユダヤ人が生物学的に劣っていると考えたからだ。強制収容所とは「遺伝および人種の法則をよりよく実証する」ための施設とされた。
SS(親衛隊)トップのヒムラーは、「親衛隊の採用に当たり、彼らの信念を問題としないで「血」をもとに選抜することを決めた。つまり候補者は1.70メートルの身長と青い目と金髪の持ち主でなければならず、1750年までさかのぼって『アーリア人』の血統たることが証明できなくてはならなかった」(『起源』③P144)
実は、ナチスはユダヤ人(ロマも)絶滅を実行に移す前、20万人の身体障害者や精神障害者を6ヵ所の収容所に送り、毒ガスで殺し遺体を焼却炉で焼いていた。「T-4」と呼ばれたこのプロジェクトは、アーリア人の遺伝的純粋性を守るためとされ、アウシュビッツ等の絶滅収容所のシステムはこれにならってつくられたという。
つまり、人は生まれつき持っている生得的な素質、遺伝ですべて決まっているのであって、いくら努力しようがユダヤ人はNGなのだ。
これに対して「共産主義」は、人は生まれた時はまっさらで、全ては環境で決まるという。
毛沢東の「白い紙はどんな絵も描ける」は有名だ。
「白紙はしみがまったくないので、もっとも新しく美しい言葉を書くことができ、もっとも美しい絵を描くことができる」(毛沢東)
カンボジアの「クメール・ルージュ」(ポルポト派)は「汚れていないのは、生まれたての赤ん坊だけだ」というスローガンを掲げた。
では、さかのぼってマルクスは?
「フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質に解消する。しかし人間の本質は、個人に内在する抽象物ではない。人間の本質とは、現実には社会的諸関係の総和である」。
また、「物質的生活の生産様式は社会的、政治的、知的生活の過程全般を左右する」とも。人の在り方は社会的環境で決まるということだ。ここからは、遺伝などは考慮の中に入ってこない。
レーニンも「共産主義的な人間をつくる」ことにひんぱんに言及している。
人間というものはきわめて可塑的な存在であり、生得的素質つまり「生まれ」は関係なく、どんな形にでも形成できるというのだ。
そこから(共産主義的)人間形成の「教育」が重視されることになる。子どもは「ピオニール」(少年団)に組織され、プライバシーのない集団生活が奨励された。中国の「人民公社」では各戸の台所をなくして集団食堂での給食が導入された。
人間を規定するのは遺伝か、環境か。
ナチズムは「遺伝」決定論であり、「共産主義」はほぼ100%「環境」で決まると考えていることになる。
人とは何かという、そもそもの「人間観」は正反対なのだ。
では、なぜ両者とも大量虐殺という同じところに行きつくのか?
(つづく)