人質外交の本質

takase222014-11-03

秋深し。
柿の落ち葉二枚。
とても美しくて見入ってしまう。
自然のわざ、というけれど、「わざ」のすばらしいこと。

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久しぶりの「朝日歌壇」。
常連の九螺ささらさん(神奈川県)が二首選ばれている。
他の投稿歌壇でも活躍する手練れのようで、上手いなと思う。理知的で、想像が広がっていくような歌がいい。
雪原に舞い降りてくる白鳥があれはかみさまの読みかけの本

気付いたり傷ついたりして秋ふかくスイートポテトの焦げ目美し

上田結香さん(東京都)は今週も入選。この人の歌にはいつもにやりとさせられる。
バタバタと引越し屋さんがとりあえず配置した家具の部屋でもう五年

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北朝鮮に残された日本人を帰還させるべく、1956年1月、日本赤十字平壌に乗り込み、日朝間の初めての政治交渉である日朝赤十字会談が開かれた。
北朝鮮に残された事情はさまざまだったが、番組ではこんなケースが紹介されている。

終戦当時、平壌で、今でいう高等検察庁検事長にあたる地位にあった山澤佐一郎さん。
朝鮮半島での生活は30年以上になり、差別を一切しない人情検事で知られていたという。
終戦から3か月後、佐一郎さんは北朝鮮当局に逮捕され、刑務所行きになる。
罪名は「前職悪質罪」。植民地体制のもとで検事をしていたことが罪に問われたのだった。
昭和21年、刑務所で妻が最後に面会したとき、佐一郎さんは「お前たち先に帰れ。心配するな」と言ったという。妻は息子とともに南へと逃げた。
家族が日本に帰って2年後、佐一郎さんから手紙が届く。1948年5月24日の日付だった。元気で「クリーム工場」で働いていること、そして「私は日本からのたよりを見るのが一番楽しみです。子供達や親類知人の皆様からできるだけ沢山、おたよりを下さるようお願いして下さい」との言葉がつづられていた。
その後、北朝鮮の建国そして朝鮮戦争の勃発があり、佐一郎さんの消息は途絶えてしまった。山澤さん一家は、北朝鮮残留日本人の家族でつくった「待ち侘びる心の会」に入り、
日本政府などへの陳情を行ったという。

日朝会談で、北朝鮮側が提起した「在日朝鮮人の帰還」問題を、日本側は「派遣団には、在日朝鮮人の問題を話す権限が与えられていない」として拒否した。
「権限を与えられていない」という拒否の理由を覆すため、北朝鮮側は、日本の国会へと戦線を広げてきた。
平壌会談の状況を北朝鮮側は逐一、日本の野党議員に知らせた。この情報をもとに、日本の国会では、連日、野党が「在日朝鮮人の問題を取り上げてはいけないと指示したのか」と政府を追及した。
外務省はついにこう答弁した。
「決して、交渉の方法自体について、政府が指示したという関係にないわけであります」
政府が、赤十字に対して、特定の議題を取り上げてはいけないとは言っていない、という意味にすぎないが、こうして、ともかくも、「在日朝鮮人の問題について、話し合う権限を与えられていない」という日本側の論理は突き崩された。

日本側としては、残留日本人を帰してくれればそれでよい。
ところが、北朝鮮側は、日本人を帰したいんだったら、この話をしましょうと、在日朝鮮人の「帰還」問題を持ち出してくる。残留日本人の議題は後回しにされてしまう・・・
非公開文書を発掘した川島准教授は、これが「人質外交の本質」だと喝破する。

あらゆる手を使って交渉を自分のペースに持ち込もうとする北朝鮮側のやり方に、日本側は、もうこれまで、と交渉決裂も覚悟。日本側が帰国しようとすると、北朝鮮側は引きとめにかかった。残留日本人と会いませんかと持ちかけてきた。
実は、北朝鮮当局は、会談に合わせて、帰国を希望する残留日本人48人を平壌市内にすでに集めてあったのだ。

そして、日朝の駆け引きは、日本側の完敗に終わることになる。
(つづく)
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