13日夜の福島県などを襲った最大震度6強の地震とそのあとの余震が各方面に打撃を与えている。
「東日本大震災、コロナ禍、今回の地震と災難が続いて心が折れそうです」
福島県相馬市の旅館経営者の言葉を朝日新聞16日夕刊が伝えている。
大震災では津波で浸水して被害を受け、原発事故の風評被害を乗り越えようとしていたところに、コロナウイルス感染拡大で宿泊客も宴会も激減。貯金を切り崩しての営業を強いられた。
Go Toトラベルと福島県独自の宿泊客1泊5千円の助成プランは「第3波」で中止に。県の支援策への申し込みが再開する15日を控え、相馬市が設けた同様の支援策の利用期限が今月末に迫る中、襲ったのが今回の震度6強の地震だった。
《客室の天井が落ちたり壁が壊れたりして14部屋すべてが使えなくなった。大浴場も配管が破損。すぐに修理したエレベーターは14日の余震で再び止まった。市の支援策の駆け込み客らで予約が埋まりつつあったが、地震を受けて約60人にキャンセルの連絡を入れることになった。》(朝日新聞16日夕刊)
一方、飲食店は15日から時短営業明けを控えて、食材を仕込んでいたところだったという。
被害の出た地域にお見舞い申し上げます。安寧な日が早く戻りますように。
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日曜、東京はよく晴れ、自転車で多摩川まで出かけた。
春が近づいているのを感じる。
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『ある人質~生還までの398日』という映画が19日から全国で公開される。
これはIS(イスラム国)に誘拐されたデンマーク人ジャーナリスト、ダニエル・リュー氏が帰還するまでを実話にもとづいて描いている。
ダニエル・リュー氏は、元デンマーク代表体操選手というアスリート。報道カメラマンとしては駆け出しで、ISにつかまった時、24歳だった。
2013年5月にトルコの国境の町、ガズィアンテプから案内人とともにシリアのアザズを目指して国境を超えた。翌日にはISに拘束され、「スパイ」の嫌疑をかけられて激しい拷問を受ける。その苦しさは自殺を図るほどだった。
ISの監獄には、のちに処刑される米人ジャーナリストのジェイムズ・フォーリー氏ら他の欧米人人質もいたが、多くはその後殺されてしまった。リュ氏は、解放後初めてのBBCのインタビューで、「後に多くの仲間を残してきたことが恥ずかしい」と語っている。
デンマーク政府は日本と同じく、テロリストとは交渉しないという立場をとるなか、家族たちがカンパを集めてプロの「保安コンサルタント」に交渉の仲介を依頼してリュー氏を救出したのだった。
この事件については、自身が危険地を取材するジャーナリストであるプク・ダムスゴー氏がリュー氏はじめ関係者に広く取材して『ISの人質』(The ISIS Hostage)というノンフィクションを書いている。おそらくこの本が映画のベースになったのだろう。
報道カメラマンとしてはほとんど実績のない彼が、単身シリアに乗り込むとは、あまりにも無謀だと言われても仕方ない。
ただ、彼が撮りたかったのは戦闘ではなかった。
「戦火から逃げようとしないシリア人、あるいは逃げたくても逃げられないシリア人を取材し、この非常事態にどんな暮らしをしているのか知りたかった」(P60)
リュー氏はシリア行きの前に一度だけ取材旅行をしている。行く先はイエメンの首都モガディシュだった。
彼はそこで撮った写真を「戦争の地に生まれれ」という白黒写真シリーズにした。
リュー氏は、廃墟の中で子どもたちがサッカーに興じている様子を撮影し「これほどの破壊のただ中にあっても(略)その人生を謳歌している姿が愛しく感じられ」たという。
この写真シリーズは「戦火にまみれた街にも、信じられないほどの希望があふれていることを証明していた」と著者のダムスゴー氏は評している。
また、国境を超える前、事前調査でガズィアンテプに言って案内人と打合せし、いったんデンマークに帰って準備するなど、無鉄砲なだけの一発屋ではなかったことをうかがわせる。
現在31歳になったダニエル・リュー氏は、NHKのインタビューにこう語っている。
「2013年シリアに行ったとき、まだ進出間もないISは他の武装組織と大差ないと思っていた。
私は間違った時に、間違った場所に行ってしまった。
十分準備して行ったつもりだったが、未知の組織には備えられなかった。」
ISが新組織として旗揚げしたのが2013年4月8日で、リュー氏がシリア入りしたのが5月15日。まだISが他のイスラム復古主義の過激派とどう違うのかも知られていなかった時期である。また、ヌスラ戦線など他の過激派につかまった外国人たちは多くが数日で解放されていた。
監督のニールス・アルデン・オプレヴ氏は、ハリウッド映画のような感じではない、リアルな映画を作ることをめざしたという。
拷問のシーンなどは真に迫った描き方のようだ。
出来上がった映画を観たリュー氏は;
「私にとって映画を見ることはバラバラになった記憶の断片をつなげる作業でした。
私が目隠しされている間がどんな状況だったのかを見てしまったんです。気がおかしくなるほど泣いてしまいました。」
交渉の結果、身代金を払って解放されたことについては;
「ISにとって私は金をもたらす有益な“モノ”にすぎなかったのです。
生きて帰ることができたのは、身代金が支払われたから、ただそれだけです。」
しかし、人質のみんながリュー氏のように助かったわけではない。
「前線が間近に迫り、ISは移動を余儀なくされ、人質のシリア人はほぼ全員殺されました。ISの輸送能力が限られていたからです。」
金づるになる外国人は移動させられたが、身代金を払わない場合は殺された。
リュー氏は、のちに殺されたフォーリー氏から家族へのメッセージを託され、何度も繰り返し暗記して米国の家族に伝えている。
地獄のような拘束の日々を送ったリュー氏だが、なんといま彼は取材を再開、カメラをもって世界の紛争地などを回っている。
「私が帰国すると、デンマークは日常のままでした。
難民問題は2015年に深刻化し、デンマークでも難民たちが高速道路を歩いてやって
この映画はいろんな見方ができると思うが、ISに殺害された日本人の湯川遥菜氏、後藤健二氏やシリアで3年以上拘束された安田純平氏を想起させ、観ないわけにはいかない。
駆け出しのジャーナリストがISにつかまったりしたら、日本では「自己責任」論が吹き荒れるだろうな。そんなことも考えさせられる。