「土佐源氏」を周防大島で観る

 10日(日)は、かみさんと、周防大島で、俳優、坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」を観て来た。

 土佐源氏」は民俗学者故宮本常一が1941年に高知県梼原町で聞き取った、盲目の元馬喰(ばくろう、馬・牛の仲買人)の老人の一代記で、『忘れられた日本人』に収められている。これをもとに坂本さんが独自にオリジナルの一人芝居として完成させた。会場の大島文化センターは満席。1本のロウソクが灯っているだけの舞台で、坂本さんの鬼気迫る熱演に引き込まれた。宮本の故郷の周防大島での公演とあって、坂本さんも特別の思いで演じたようで、上演後はさすがにぐったりしていた。上演後、あるお寺での打上げにもお招きいただき、そのまま翌朝まで坂本さんとご一緒させていただいた。(写真は青柳健二さん撮影)
 今回、いい機会なので、芝居を見るに先立ち、その元馬喰がいた梼原町も回ってきた。行程は、成田空港からLCCで松山へ、ここからレンタカーで梼原へ、一泊して松山へ戻り、フェリーで周防大島へ渡った。時々雨にも降られたが、とても印象に残る旅だった。

 かみさんは若いころ、宮本常一が設立した「観光文化研究所」(近畿日本ツーリストが資金を出した)が出す雑誌『あるく みる きく』の愛読者となり、さらには研究所の事務局で働くことになった。研究所には、大学の探検部関係や冒険家、研究者が出入りしていて、その中にはグレートジャーニーの関野吉晴さん、先日亡くなった恵谷治さんなどもいたという。研究所を母体に、「地平線会議」という冒険・探検をめざす会ができる。私はボルネオ島の熱帯林伐採の取材をきっかけに「会議」に顔を出すようになり、月例報告会で報告したりするうち、かみさんと知り合って結婚することになった。
 そういう因縁もあり、宮本常一ゆかりの土地に二人で旅をすることになったのだった。ちなみに「土佐源氏」公演の10日が結婚記念日だった。

 さて、「土佐源氏」だが、中身は老人の色恋話が中心だ。忘れることのできない女性たちとの逢瀬が性描写を交えて語られる。その赤裸々な告白には、庶民の喜び、哀しみが正直に現れている。宮本の代表作の一つだ。

 坂本さんがこれを読んだのは、20代半ばで、大きな感動を受けたという。小劇場運動を牽引していた1967年、新宿のストリップ小屋の幕間狂言をやらないかと声をかけられた。色事の話がよいだろうと「土佐源氏」を一人芝居でやってみることに。自らの演出で30分の幕間狂言に仕立て、昼夜3〜4回のステージをつとめた。坂本さん、38歳の時のことである。幕間芝居など客は見向きもしなかったが、踊り子たちがファンになった。次第に評判を呼び、坂本さんの芝居を目当てに来る客も現れた。
 ストリップ小屋の仕事が終わったあと、坂本さんは「土佐源氏」を70分に仕立て直す。あの芝居をもう一度観たいという声にこたえ、あちこちに出かけて演じるようになる。噂が噂を呼んで、別のところからお呼びがかかる。こうして「出前芝居」というスタイルができた。劇場だけでなく、神社、個人宅、喫茶店、さらには浜辺や極寒の雪の中で上演したこともある。更にポーランドスウェーデン、ドイツ、オランダ、ペルー、ブラジル、デンマーク、韓国と海外にも招かれて上演し、大きな反響を呼んだ。
 坂本さんはいま88歳だ。2011年の胃ガン手術後も精力的に「出前芝居」を続けている。
 坂本さんはこう語っている。

 「30歳代には30代の、50歳代には50代の演技があり、80歳になってみれば80歳の演技があるものだ、と思いました。先日上演したときのこと、演技している自分の体に変化がありました。余計な力みがなくなっていたのです。飄々として、かろやかな老人が観客を前に自然体でうごめいていました。年をとってみなければ、わからないことがあるもんだな、と思いました。テクニックやひらめきだけでなく、そして1000回演じてもつかめずにいたことが、体で自覚できたことは、役者としてうれしく楽しいことでした」
 「ひとつの演劇のキャラクターを最も長い期間演じる俳優」として、ギネスブック登録申請中だそうだ。
 1967年の初演から演じ続けて半世紀、この夏、1200回目の公演を迎える。
 坂本さんを見習わなくては。「もう歳だ・・」なんて言っていられないな。