おととい、16日の土曜日、伊藤淳『父・伊藤律〜ある家族の「戦後」』(講談社)の出版記念会があった。
もう知る人も少なくなったが、戦後共産党の大幹部だった伊藤律は1950年地下に潜行、後に中国に密出国し「徳田機関」で活動するが、野坂参三により「スパイ」として除名された。帰国した野坂らが「死亡」説を流すなど、消息不明のまま時間が経ったが、1980年突然帰国して大ニュースになった。
帰国直後、バラエティ番組で、ビートたけしが「キャンディーズのラン(伊藤蘭)の親父さんが中国から帰ってきたよな」とギャグを言ったのを覚えているが、そのくらいの騒ぎだった。
この本の著者は、伊藤律の次男の淳さん。出版意図をこう書いている。
「父・伊藤律の『無罪』は、主として私以外の多くの人たちの力によって完全に証明された。もはや私には付け足すものはなくなった。ようやく気が楽になった。もし私にできることがあるとすれば、レッテルなどへの気兼ねや政治的立場への配慮などもすることなく、肩の力を抜いて、私が体験したこと、見たままのことを記すことではないか。」
伊藤律の「スパイ」説には二つあって、一つは戦前、特高の「スパイ」で、北林トモの名前を明かしたことでゾルゲ事件摘発の端緒を作ったこと、もう一つは、戦後、GHQのスパイだとされたことだ。このいずれもが、渡部富哉(社会運動研究家)による特高資料の丹念な読み込みと地道な証人の掘り起し、そして、加藤哲郎(政治学者)による米国公文書館の米軍資料の発見でとどめをさされた。(渡部『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』、加藤『ゾルゲ事件―覆された神話』)
伊藤律「スパイ」説が世に知られるにあたって絶大な影響を与えたのは、松本清張の『日本の黒い霧』(文藝春秋)の「革命を売る男・伊藤律」だったが、渡部さんと淳さんらの申し入れを受けて、現在では、文藝春秋は、スパイ説を事実上否定する3ページ弱の「作品について」という断り書きをいれた改訂版を出している。
【出版記念会の淳さん。保坂正康氏、加藤哲郎氏の講演もあり、98人が参加した】
出版記念会の会場の明大リバティータワーに5分ほど遅れて着いたら、「こちらへ」と案内された席に私の名前が。来賓扱いではないか。恐縮していたら「一言お願いします」とマイクを持たされた。
淳さんとのご縁は、2013年12月に放送された《父はスパイではない!〜革命家・伊藤律の名誉回復》(テレメンタリー)を制作したことと、淳さんを講談社の編集者に紹介したこと。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20131209
こういう形に結果するのにほんの少しでもプラスになったのならうれしい。
伊藤律の家族は、これまで多くの事実を封印してきた。
律の妻、キミさんは、1953年9月の、夫の除名発表の後、「絶縁声明」を出す。
「私は9月21日付アカハタ発表の党中央委員会声明『伊藤律処分に関する声明』を絶対支持し、心からの憤激をもって、今後ますます強まるであろう米日反動の政策に対して闘うことを誓います」。
そして亡くなるまで、熱心な共産党員でありつづけ、淳さん自身も共産党に入党して活動してきた。共産党から「スパイ」とされた人物の家族でありながら、その党のために活動するという複雑な人生をどう生きてきたのか、私も大きな関心があり、一気に読んだ。
伊藤律を「スパイ」として中国共産党に監禁を依頼したのは、後に日本共産党議長になった野坂参三。1955年に後の副委員長、袴田里見が「査問」したのが最後で、律への日本共産党からの接触は途絶えた。野坂や袴田らは律を中国に置いたまま帰国、家族にも律の消息を伝えていない。律は27年間、中国の監獄に入れられたままだった。耳を疑うような非人間的な仕打ちである。
そのうえ1980年に律の生存情報が家族に届いたとき、野坂が夜、黒塗りの車2台で子分を引き連れてキミさんの家まできて帰国を妨害している。忠実な共産党員だったキミさんが、野坂に抗う場面など手に汗握る場面が本書に出てくる。
律が1990年に亡くなったあとの1992年、野坂は「スパイ」だったとして日本共産党を除名された。野坂は「残念ながら事実なので処分を認めざるを得ない」と処分を受け入れた。
伊藤律の冤罪が明らかになったいま、本物のスパイが、律に事実無根の「スパイ」の汚名を着せたことが判明したのだった。伊藤淳さんら家族からの名誉回復の要求に共産党は応じていない。番組を作ったさい、私も共産党に質問項目を送ったが、律への評価を変えるつもりはないとのことだった。
数奇な運命を生きたある一家の体験談から、いまだに払拭されない日本共産党の全体主義的な体質も読み取れる一冊である。