電力自由化を勉強しよう7−つぶされた自由化

先日のニュースによると、福島第二原発の方も間一髪だったという。
福島県楢葉町富岡町にまたがる福島第2原発が2012年2月8日、震災後初めて報道陣に公開された。第1原発から南に約12キロ離れている。当時から現場で指揮を続けている増田尚宏所長は、記者らに「福島第1原発ほど状態がひどくならなかったが、紙一重だったと思う」と振り返った。
事故発生当時の第2原発と第1原発の状況の違いは、次のようなものだった。
震災発生は2011年3月11日15時前。第1原発ではほどなく、津波被害のため「全電源喪失」が確認された。夜には原子力災害緊急事態の宣言が出され、半径3キロ以内の住民に避難指示が出された。避難エリアは後に拡大する。
第2原発でも翌12日に緊急事態が宣言され、はじめ半径3キロ、ほどなく半径10キロの住民に避難指示が出た。
第2原発では1〜4号機の4基とも運転中だったが自動停止した。3号機を除いて冷却機能が一時、失われた。しかし、3月14日には1、2号機が冷温停止(100度以下で安定的に管理)状態になり、15日朝には第2原発すべての「冷温停止」が発表され、「事なきを得た」形だ。》(Jcastnews)
またまた、今ごろになって、ひやっとさせる話が出てきた。
さらに、所長が記者団の前で「事故が金曜の午後というみんながいる時間帯だったのでラッキーだった」と語ったのにはたまげた。
3月11日が週日の金曜日で、2000人のスタッフがいたので助かったという。土日は当直が40人しかおらず、週末だったらとても対応できなかったのだ。もし、福島第一だけでなく第二までもメルトダウンしていたら、東京都民に避難指示が出ていたかも・・・
原発とはこんなに危ないものだったのか、と改めて怖くなった。
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東電の国有化をめぐって綱引きがはじまった。
枝野幸男経済産業相は13日、東京電力に対する約6900億円の追加支援の認定時に、今後、原子力損害賠償支援機構が注入する資金について、「注入額に照らして十分な議決権がなければ認定するつもりはない」と述べた》
これに対して経団連米倉弘昌会長は、「国有化とはとんでもない。勘違いしている」と痛烈に批判した。米倉会長はことあるごとに東電擁護の発言をしている、いわば代弁者。
いま、電力会社は「自粛中」で大っぴらな意見表明を控えているから、かれらの意図を知りたければ、米倉会長の発言を聞けばよい。
枝野経産相の昨年末の発言からすれば、国有化から発電・送電の分離など本格的な電力自由化に向けた動きであると理解できる。電力会社にとっては一大事なのである。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20120118
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電力自由化にかんしては、日本は例外的な国である。
先進国で発送電を分離していないのは日本だけと言ってよい。ここ十数年で世界の主要国が一斉に自由化に動き、中国でも2002年に発送電分離が行われている。
先に述べたように、90年代から日本でも自由化の動きがあったのだが、ごく一部の「小売の自由化」だけに終わり、「発送電分離」などの本質的な改革にはいたらなかった。電力会社の激しい抵抗で自由化の動きは「つぶされた」のである。
メディアにひんぱんに登場し、自身ベストセラーの本を書いて注目を浴びる経産省の元改革派官僚、古賀茂明氏も「電力自由化」を志向した一人だ。
彼は当時をこう振り返っている。
「一部の電力自由化を中心になって実現したのは、当時、公益事業部長という、電力やガス会社と直接対峙するポストにあったある官僚だった」。
「その官僚は一部自由化を達成し、局長ポストにも就いた。すると、東電が当時の次官に圧力をかけた」。
「結果、その改革派の官僚は志半ばで経産省を去ることになった。同時に電力自由化論議も進展することはなく、東電の独占体質は温存されたというわけである」。
その後、電力自由化に取り組もうとした官僚は、ほとんどが経産省を去らざるをえなかったという。
「一方、東電をはじめとする電力会社とうまく『折り合い』をつけてきた人間は出世コースの階段を上がっていった。そして、いつしか電力会社に盾突こうとする官僚は皆無になっていったのである」(古賀茂明『官僚の責任』P49以下)
いよいよ、これから「電力自由化」に関するせめぎあいがはじまる。
九電力体制は様々な手段で必死の抵抗をしてくるだろう。
今後の動きを注視しよう。
(つづく)