日隅一雄さん逝く

takase222012-06-13

福島第一原発事故が発生した四日後の昨年三月十五日、文部科学省が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による予測結果を基に、原発の北西約二十キロの福島県浪江町に職員を派遣し、実際に高い放射線量を測定していたことが十一日、分かった。
 SPEEDIによる放射性物質の拡散予測が事故後初めて公表されたのは昨年三月二十三日で、住民避難に役立てられなかった予測を、政府は公表前から活用していたことになる。
 政府の住民軽視の姿勢があらためて浮き彫りになった。
 文科省によると、同十五日夕に福島県入りした同省職員から測定地点の指示を求められ、文科省はSPEEDIの試算結果を基に場所を指定。同日午後九時前、毎時三三〇マイクロシーベルトと高い数値を実際に測定し、翌十六日未明に公表した。
 同省は原発から一ベクレルが放出したと仮定し、風向きなどの気象条件から、どの方角に放射性物質が拡散しているか把握する試算を同十一日夕に開始。同十五日は、原発から南向きに流れていた風が昼ごろから夕方にかけて時計回りに回転し、北西向きに変化していたことが判明しており、この予測を基に職員に測定地点を指示したという》東京新聞12日朝刊
文科省が、3月11日の夕方にはSPEEDI試算を始めていたことはすでに知られていたが、それをもとに、職員に「あそことあそこが高そうだ」と測定地点の指示をしていたというのだ。住民には教えずに。・・・ということが「6月11日に分かった」というニュース。事故から1年3ヶ月経って「分かった」というわけだ。
再稼動の決定はスピーディなのに。
翌13日(きのう)の朝刊には、日隅一雄氏の訃報が載った。
原発事故直後から、毎日、記者会見に出て、東電や安全院の情報隠しに異議申し立てを続けた。マスメディアがだらしないなか、こういう人ががんばって情報を引き出しているのだなと尊敬の念を持った。私は一度名刺交換して立ち話しただけだったが、がんが見つかって余命宣告されていることを知って驚いた。末期がんであることを冗談にして「ヘヘヘ」と笑いながら、飄々として飛び回っていた。
《三月の東京電力福島第一原発事故直後から、政府や東電の責任を追及してきた元新聞記者で弁護士の日隅一雄(ひずみ・かずお)さんが十二日午後八時二十八分、入院先の東京都新宿区河田町八の一の東京女子医大病院で死去した。四十九歳。昨年五月、末期胆のうがんで余命半年と告知されていた。広島県出身。
 京大卒業後、産経新聞記者を経て一九九八年に弁護士登録。第二東京弁護士会に所属。NHK番組改変訴訟や沖縄返還密約情報開示訴訟などに携わる一方、弁護士やジャーナリストらで設立したインターネット市民メディア「NPJ(News for the People in Japan)」編集長を務めた。
 十二日に亡くなった日隅一雄さんは、弁護士として「表現の自由」や「知る権利」の実現に奔走する一方、ジャーナリストとして福島第一原発事故の問題を追及し、ブログなどで発信を続けた。東電や政府の記者会見に足を運んだ数は延べ百回以上に上る。
 会見への出席は「市民に必要な情報がきちんと出ていない」との危機感を募らせたことが発端。既存のメディアにも問題を突きつけていた。
 今年二月、東京新聞のインタビューでは「今は政策決定が官僚主導。『主権在官』になっている」とし、国民が情報を得にくい制度に問題があると指摘。「市民が情報共有して主権を行使できる社会にし、日本に実質的な民主主義を根付かせなくてはいけない」と強い口調で説いた。
 一方で「今の記者はおとなしすぎる」と憂い、「官僚は常にメディアをコントロールしようとする。勝たなきゃだめだ」とも訴えていた。
 今年一月に「検証 福島原発事故・記者会見」(共著)、四月には「『主権者』は誰か」を刊行。病をおして対談や講演に出向き、真の民主主義の実現に最期まで執念を燃やした》
東京新聞
東京新聞は写真入りの記事。
木野氏とのトークライブがYoutubeで見られるので、関心のある方はどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=KbXBONuA9CA
盟友のジャーナリスト木野龍逸氏によれば、日曜に講演をして、亡くなったのが火曜の夜だったという。まさに前のめりで倒れた。ご冥福をいのる。