右翼と左翼の「統合」6

世話になった先輩がきのう急に亡くなった。
今日、彼と霊安室で十数年ぶりで対面してきた。尊敬とある意味畏怖の対象だった人が、花の中にぽつんと埋まっていた。とても小さく見えた。
途中下車して飲んで帰ってこれを書いている。

つくづく人は「現象」だと思う。
宮沢賢治
《わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です》
という一節がひっかかっていて、その意味が分からずにいたのだが、年をとって人の生き死にを見ることが多くなると、自分も含めて、人は「現象」なんだと実感できる。
いろんな条件や要素が「私」というものを、今いっときこの世に現象させている。
これを仏教で「縁起」というのだろう。宮沢賢治はそれを強調するために。それにおっかぶせて「有機交流電燈」などという言葉を持ってきたのだろう。彼は人の命が「実体」ではないことをよく分かっていたと思う。

さて、本題である。
前回は、右、左といういわば平面の差に加えて、「個人」と「集団」とどちらに重きをおいて社会を作っていくべきかというもう一つの「軸」があって、これを加えると大きく、以下のように4分割されるという構図をしめした。
1)自由な右志向
2)秩序ある右志向
3)自由な左志向
4)秩序ある左志向

小泉首相の「自民党をぶっこわす」という、いわゆる新自由主義路線(郵政民有化その他)が出てきたときに、左翼だけでなく、典型的な保守陣営から強硬な反対が出てきた。そこで選挙で「刺客」がどうのこうのという自民党内部の大騒ぎになったわけだが、この現象は、同じ右の中の「秩序」派と「自由」派との闘いと解釈できる。

いろんな地方で、「再開発」という名の大きなプロジェクトが進められるとき、「古い町なみを守れ」、「景観破壊反対」と抵抗する人々の中に、地元の保守の大立者の名前があるというのはよく聞く話だが、これも同じだ。右の中の「自由」派と「秩序」派の違いである。

ポルノなどが子どもの教育に悪いから規制せよという保守派の運動に、左翼の一部が乗ることがある。いわゆる左の「秩序派」である。
ちなみに、福祉国家の北欧などでは、ポルノなどは厳しく販売が規制されると聞く。また、北欧をはじめ福祉国家が、国民総背番号制をとるのは必然である。一人ひとりの収入や生活状態を「管理」しなければならないからである。
こう見てくると、平面状の右、左に加えて、「個人」「集団」の軸が存在するのは否定できない説得力を持つと私は思う。
(もっとつづく)