「中村哲の挑戦」でロングインタビューを観る2

 中村哲さんは社会批評や人生観を文章にして書き記しているけれど、動画で、しかもカメラ目線で語りかけられるととても味わい深い。

 中村哲ロングインタビューのつづき―

Q4:日本が失ってしまったものは何だと思いますか?

 簡単に言うと、金で買えないものを全部金に換えてしまったという感じがしてならない。敗戦直後のお腹が空いた状態でみな頑張ってきたということは分かるが、どこに行きついたかというと、これで幸せだったかどうか。私はちょっと疑問に思うことがある。

 さっきの自然の話ではないか、山にはいろんな木の実がなっていて、虫が飛んでいて、鳥がさえずっていて、そういう環境は今もあるが、だんだんそういう直の触れ合いが、直接の触れ合いが少なくなっている。それが失ったものの一つではないか。

 人間関係においてもそうなのだろう。我々が個人主義個人主義、自由だ、自由だと言っている間に、なんとなく個人と個人がバラバラになって、親子でさえ信用できないような、そういう関係が悪い方向でできていっているような気がしてならない。
日本全体がホワイトカラーになってしまったという感じがする。いろんな人がいて、ブルーカラーもいればホワイトカラーもいて、それぞれの役割を担うという社会ではなくて、国を挙げてホワイトカラーになってしまったような気がしてならない。汗を流してするような仕事、お百姓さんの仕事だとか、あるいは港で荷担ぎをして実際に汗を流す人たち、それからいろんな職人たち、自分の手で自分の体を使って何かを得るという仕事があまりに少なくなっている気がする。


Q5:ホワイトカラーばかりになったら、日本はどんな国になってしまうのでしょうか?

 想像できないが、まあ、長続きしないのではないか。という意味は、決してもうだめだという意味ではなくて、しかし、ホワイトカラーが無くなっても、人間は生きられるんだと言いたい。「一回ダメになってしまって・・」という話をよく聞くが、それはけっして無責任に言ってるわけじゃなくて、今の状態はそう長続きしないだろう。

 あんだけお金があり、食べ物も自分で働かずに金さえ出せば輸入して食える。まあ、輸入業者やお店の人にもそれなりの辛さがあるだろうが、全体として、自分の食べ物の半分も自分たちで作れないような社会。これは長続きしないのではないか。

 しかし、敗戦直後のことを考えると、あの時100万人の餓死者が出るといわれていたが、そんなに死んだ人がいなかったのは、あのころ日本の人口の7割が農民だった。自給自足で生き延びたという実体験をちょっと年増の人は持っている。まあ、「そう怖がらなくてもいいから」(笑い)と言いたい。

 無いものを守ろうとしているという気がしてならない。

 

Q6:先生は宮沢賢治の「注文の多い料理店」と現代日本を重ね合わせて見ているようですが?

 そうですね。立派な建物があって、注文が多くて、その中に入ってしまえば、そこしか進みようがない、という意味ではまさに一つの予言だったと思う。しかし、気づいてみると、それは夢まぼろしだったと。最後はまぼろしが消えて、「だんなー、だんなー」と呼ぶ猟師の声でハッと気が付いて、団子を食べて帰ったと(笑い)。そういうふうなオチになるのではないかと私は思う。

 結局、無いものを霊験あらたかに守ろうとしていた、ということだろう。

 

Q7:アフガニスタンには教育がないと国際社会は批判しますが、そのことをどう思いますか?

 そういうことですね。教育というものは、最低限、人としての守るべきルールをきちんと教えることと、もちろん、自然や物事に対する知識ということがある。それが根本的なところ、生きていく上で必要なもの、さらには職業教育もあるが、職業教育なら、こちらではちゃんと口伝えで行われているし、人間が生きていく上でのルール、目上の人を尊重して、弱い人を助けて助け合って、という教えはきちんと受けている。だから、いわゆる学歴が高いだとか、偏差値が高いだとかは人間の優秀性を決める基準にはならない、ということを私は教育する人に言いたい。

 

Q8:先進国がアフガニスタンに民主主義などさまざまな考えを持ち込みますが、先生はどう考えますか?

 この社会は、共産主義者もいれば、王政主義者も、共和主義者もいる。それからイスラム過激主義者もいる。しかし、それはあくまで99パーセント、表面の着物みたいなものであって、中身の体質というのはほとんど変わらない。

 血縁、自分の身近なつながりを非常に大切にする。それから地縁、同じ住んでる郷土の人たちを大切にする。あとはただ服を取り替えているだけで、中身はあまり変わらない。その点で、限りなく純粋な思想主義はここでは通用しない。それがあるとすれば、いかに生きていくかと、人に迷惑をかけず助け合いながら生きていくかということに尽きる。それは私たちでも共通に言えることだと思う。

 

Q11:先生の生き方は宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」のように見えますが、先生自身はどう思われますか?

 セロ弾きのゴーシュ」でしょ。いま読んでも何か自分によく似ている。精進しようとは思うけど、何か出てきて、どうも思ったことができない。昆虫採集に熱を入れようとしても、何か出来事があってそれに関わらざるをえない。やっとこれで一息ついたかと思うと、また何か出てきて、ずーっとその続きだったが、この歳になると、仕方がなかったんじゃないかと。それでけっこう自分も辛い思いもあったが、楽しい思いもしたし、ある程度の精進はあったのだから、それでええんじゃないか、という気がして、ああいう話を聞くとホッとする。

 だいたい自分の人生というのは、自分の思ったとおりにならない(笑い)と思っても差し支えないんじゃないか。思ったとおりにして失敗した人というのはたくさんいる。これはこれで、神が決められたことと受け入れざるをえないですね。

(次回につづく)

 

 質問6で宮沢賢治が登場したので、順序を替えて、質問11をここに入れた。

 「セロ弾きのゴーシュ」について、少し補足すると、中村哲さんは2004年に宮沢賢治学会から「イーハトーブ賞」を受賞している。中村哲さんは、宮沢賢治に傾倒していただけに「特別にこの賞の受賞を光栄に思う」として、自らの人生を「セロ弾きのゴーシュ」になぞらえてこう述懐している。

《この土地で「なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。 人類愛というのも面映(おもはゆ)いし、道楽だと呼ぶのは余りにも露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。 良く分からないのです。 でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。 セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。 仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。 てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。

 私の過去20年も同様でした。 決して自らの信念を貫いたのではありません。 専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。 それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。・・・》

 この述懐の続きは以下を参照して下さい。

takase.hatenablog.jp