きょう、サンプロの特集「派遣法誕生(前編)」を無事放送。
私が一番印象に残っているのは、「メイテック」という派遣会社の28歳の社員が、「先週、結婚しました」と報告して、同僚の拍手を浴びるシーンだ。同じ派遣でも、「常用型」派遣の場合は、将来設計が可能になることを象徴的に示すシーンである。
「常用型」は、派遣会社に社員として雇用され、そこから派遣先に行って働く。派遣期間が終わっても派遣会社の社員の身分はそのままだから、賃金も社会保険も保障される。
それとは対照的に、いつ収入が絶たれるかわからない「登録型」では家庭を持つということは難しい。少子化対策として、扶養手当や保育環境の整備なども大事だろうが、雇用の安定がなくてはそもそも結婚できない。雇用の安定が第一のセーフティネットと言われるのも当然である。
放送終了後、すぐに視聴者からジン・ネットに激励のメールが入った。お褒めのことばにつづいて、戦後の労働法の重要性をあらためて感じたと書かれてある。
戦後、進駐軍は労働関係の民主化をはかった。労働者が口入屋によってタコ部屋に押し込められるような労働形態(「蟹工船」のような)を廃止するため、雇用者と使用者が同じ「直接雇用」を原則とすることになった。労働者供給事業(労供)は中間搾取の源になるとして「職安法」によって禁止された。これが戦後の労働法の原則であり、今の労働者派遣は労働者供給事業そのものであって認められない。
ところが、66年、アメリカから派遣会社「マンパワー社」が日本に上陸した。
この時代、女性の労働環境は今とかなり異なっていた。女性は若くして結婚し会社を辞めるのが当たり前だった。
民放労連のホームページによると、「マンパワー社」進出と同じ66年、フジテレビ労組が結成され、《女子25歳停年制、交換手35歳停年制廃止》を要求している。今の若い人には想像できないかもしれないが、当時であれば、アヤパンも中野美奈子も(ともに今年30歳)とっくに辞めさせられていたわけである。
名古屋放送では女子30歳定年制撤廃のストライキをうち、名古屋テレビでは同じ問題で裁判闘争が起きている。フジテレビ局で女子25歳定年制撤廃を勝ち取ったのは72年だった。http://www.minpororen.jp/women/history/index.html
「マンパワー社」は、結婚などで一度退職した後、また働きたいという女性たちを、英文秘書やタイピストなどの仕事で派遣した。比較的高給でかっこいい仕事が多く、派遣される側にも不満はなかったようだ。
その後、続々と派遣会社ができるが、本来この業務は違法だから、法の網の目をくぐるために「業務請負サービス」という名称で事業展開していった。政府は目をつぶって取り締まらなかったばかりか、77年には「マンパワー社」の派遣事業は職安法に違反していないと、お墨付きを与えることになる。
しかし、派遣が単純労働にも拡大しトラブルが増えてくると、労働省も規制をかけなくてはならないと考え、法制化をめざすようになる。大義名分としては、「違法派遣」を合法化したうえで規制をかけたほうが労働者を保護することになるというわけだ。
85年に「労働者派遣法」が成立するのだが、一番の問題は「登録型」を認めたことだった。これこそが、今の雇用の不安定をもたらした元凶なのではないかというのが、特集の問題提起だ。
法制化の過程では、「派遣法」の制定自体が戦後労働法をひっくり返すとして強い抵抗にあった。ましてや「登録型」を入れることなど考慮の外だった。それが最終段階で急に書き入れられていたが、特集はそのからくりを追跡している。
激励メールには、「ソフトなイメージの内田さんがレポーターになっていらっしゃるところも、取材相手にも視聴者にも抵抗なく受け入れられる」のでとてもよいと書いてあった。
内田誠さんは、私の大学院時代の後輩だ。早稲田の法学研究科には院生のたまりばの部屋が6つくらいあって、それぞれ憲法、民法など専攻別に割り振られているのだが、我々は、ローマ法や法哲学など少数派が集まる「吹き溜まり」組の部屋で一緒だった。内田さんの専攻は「日本法制史」で(彼は昔の草書体のふにゃふにゃ文字などを読むのはプロである)、私は「ベトナム社会主義法」。どちらも就職は難しく、大学院を去ってから、テレビの世界で再会することになる。
内田さんは、この取材を振り返って、「もともとやっていた学問(日本法制史)が別の形で生きたような気がする」と感慨深げに言っていた。
さて、きょうは快晴だったが、視聴率はどうか。天気が悪い方が、家でテレビをつけるので、視聴率はいいのだが。