「胃ろう」しますか6−どっちも情動的判断だった

takase222012-04-12

ハナニラの花をよく見かける。
名前より可愛い花だ。ネギやニラの匂いがするそうだが、そんなに近寄ったことがない。こんど嗅いでみよう。
春爛漫で、桜吹雪がはじまっている。
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認知症患者はこれから爆発的に増え、2050年には今の3倍にもなるという。
世界保健機関(WHO)は11日、世界的に平均寿命が延びるのに伴い、認知症患者が2050年に1億1540万人に達するとの報告書を発表した。10年時点の患者は推計3560万人で、新規患者は年間で770万人とされる》(ジュネーブ・共同)
長生きするようになるとこれは自然なことだ。社会的には大変だけれど。
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さて、胃ろうをするかどうかを理性的に意思決定する場合の例;
あなたはパーキンソン病で歩行困難だが、認知能力は衰えていない。飲み込みが悪くなってきて誤嚥性肺炎を三度起こした。医師は誤嚥性肺炎を起こさないためにという理由で胃ろうを勧める。このとき比較すべき判断材料は;
1) 誤嚥性肺炎をこれからも起こすだろうこと
2) 肺炎で入院していた時の点滴や病室の雰囲気など不快な経験
3) 医師が今後誤嚥性肺炎を起こさないと保証したこと
4) もう十分生きてきたと思うがまだ少し長生きして孫の結婚を見たい気持ち、などが胃ろうを造ることへの肯定的材料になる。
しかし、
1) もう好きな寿司と蕎麦が食べられない
2) お腹に穴をあけるのは怖いし格好が悪い
3) 誤嚥性肺炎がもう起こらないという保証があるのか
4) 延命効果がどのくらいあるのか、などが気にかかる。
こうして、理性的意思決定は、情報を収集し、吟味、判断するのだが、時間と労力がかかる。9日の日記で
《健康な高齢者に宮城県でアンケートした結果、87%が「経管栄養をしてもらいたくない」と回答した。また、02年の内閣府の意識調査(対象三千人)では、「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」が回答者の81%にのぼった》と紹介したが、この質問に答えた認知症ではない健康な高齢者が、情報と時間が必要な「理性的」選択を行ったとは到底考えられない。
そうなると、認知症高齢者に胃ろうについて聞いたときの情動的な拒否反応は意味深い所作であることがわかる。彼らはしばしば嫌悪の表情を浮かべながら「そんなの嫌です」と即座に反応したのだった。
彼らの反応は、その長い生涯を通じて蓄えてきた経験と記憶に照らして示す、強い情動を伴った拒否だと考えられる。そして、認知症高齢者も非認知症の高齢者も8割の胃ろう拒否があったが、両群ともに「直感」型の意思決定を行ったと見られる。
つまり、自分の身体に直接痛みや変形をもたらすような環境からの刺激をイメージできるならば、あれこれ得失を比較するよりも、疼痛のような強い情動を起こす経験の記憶に照合するのはごく自然といえる。
ここで、ワクチン接種を幼児が嫌がるのと、高齢者が胃ろうを嫌がることの差が明らかになる。
幼児は注射の経験も記憶もない。おぎゃーと泣く痛みに対する反応は生命力の発言とも考えられる。幼児が将来得る利益を考えれば、泣いても注射するのは倫理的に正しい。
他方、認知症でも認知症でなくても高齢者の拒否は、全生涯の経験と記憶に基づく意思表明だ。その意思表明を尊重するのが、彼らを倫理主体として遇することになる。
ここまでくると、認知症高齢者は「理性」を使って損得を比較できないから、認知症高齢者の意思決定は倫理的妥当性を持ち得ない、という考えの根拠が薄いものであることに気づくだろう。
以上が、大井玄先生の論考である。

私も胃ろうをつけるかどうかの判断を迫られている身内がいる。父である。
そこで、直接聞いてみることにした。

「胃ろうする」?
(つづく)