チベットとの遭遇3 法王との会見

1992年、私はチベット亡命政府のある北インドダラムサラを訪れ、ダライ・ラマ法王に単独会見した。
会見場は彼の質素な執務室だった。待っていると、法王が胸の前で合掌しながら「ハローハロー」と現れた。向こうから手を差し伸べてきて握手。こちらの緊張を解くかのように、笑顔を絶やさない、とても気さくな態度で接していただいた。
その時の法王の主張も態度も、今回の成田の会見と同じだった。何度も冗談を言いながら、ヒャーッハッハッハ!と笑い、ゲホゲホと咳き込んで喉の痰をぬぐい、「えーと、あの英語の単語なんだっけな」と詰まりながら、精力的に語り続けた。1メートル半ほども離れていない目の前で、あるいは満面の笑みで、あるいは目尻に皺をよせて悲しげに、身振り手振りをまじえて話す法王。ときどきツバさえも飛んでくる。
私は呆然としていた。
本によると、ダライ・ラマとは、「チベット仏教の最高指導者」にして、「観音菩薩の化身」だというではないか。感情の起伏を見せない、物静かで気高さを漂わせた人だと私は勝手に思い込んでいた。私の目の前にいる人は、その「聖者」イメージとはあまりにかけ離れていたのだ。
しかし、その後、《ダライ・ラマはこれでいいのだ》と思うようになった。偉そうな言い方になるかもしれないが、私はダライ・ラマを「了解」するようになった。
実践するかどうかは別にして、出家願望のある中年は意外に多い。座禅道場に行くと、たくさんの中年サラリーマンがいるが、彼らにはその臭いがある。私もかつて出家を夢みていた。人里はなれた静かな竹林にでも庵をむすび、貧しくも清らかに生きたい・・・と。
それが変わったのは、大乗仏教の教えを学ぶようになってからだ。「菩薩道」の考え方に強く共感するようになった。
衆生と自分は一体で、すべての衆生が救われないうちは涅槃に入らない。静謐な環境にあって自分だけが気持ちよくなるという小乗的な道ではなく、どろどろとした現実に飛び込み、その中で皆とともに喜び悩みながら覚りをめざす「菩薩」の道こそすばらしい。そこに貫かれているのは《慈悲》である。
だから、ダライ・ラマは徹底して人間くさい「おじさん」でいいのだ。衆生とともに歩み、ともに笑い泣くダライ・ラマこそ観音菩薩の化身なのだ。
10日の成田の会見で、法王は、「中国の無垢な人民が、政府の宣伝のままに、ダライ・ラマは悪い人だと信じていることがとても悲しい」と言って、本当に悲しそうな顔をした。私はそこに法王の大いなる《慈悲》を見る思いがする。