銃犯罪続発の背景その2

 95年のこと。大宅武彦(おおや・たけひこ)さんは、長崎県警暴力団対策課のたたき上げの刑事で警部補だった。ある暴力団員の取り調べで佐世保市早岐(はいき)署に応援に行った。暴力団員が「知人から銃を受け取る予定だ」との情報を知った大宅さんたちは勇み立つ。当時は、拳銃摘発の大号令がかけられ、小さな早岐署にも年1丁の摘発ノルマが課されていた。まだ拳銃摘発の実績のなかった早岐署にとって千載一遇のチャンスがやってきたのだ。早岐署員と応援の大宅さんたちは違法なやらせ摘発に踏み込んだ。
 暴力団員に兄弟分への電話をかけさせ、拳銃をスーパーの駐車場で受け取らせた。これは、勾留中の容疑者を連れまわして拳銃の授受をさせており、銃刀法違反である。さらに違法行為は次の段階へとエスカレート。暴力団員と一緒に車でひと気のない山中の神社に向かう。場所はあらかじめ警察が捜しておいた。神社の天井と床下にそれぞれ拳銃と実弾を警察が隠したうえで、暴力団員にそれらを取り出す格好をさせて鑑識が写真撮影した。完全なやらせであるが、1丁摘発の実績があがり、早岐署の宮崎刑事部長ら幹部は大喜びだったという。95年10月のことだった。
大宅さん自身、こうした行為が違法だとは知っていたが、当時の雰囲気の中では全く当たり前のことと考えていたという。
 異常な拳銃摘発がはじまったのは、90年代の「平成の刀狩り」(原田さんの命名)からだった。
92年、警察庁は拳銃の摘発を徹底するように大号令をかけた。そして大宅さんたちが上のやらせ摘発をやった時点のおよそ半年前の95年3月、国松警察庁長官狙撃事件が起きる。警察はメンツをかけて摘発に乗り出し、大号令に拍車がかかった。
 ところが、ここにははじめからボタンの掛け違いがあった。それまで刑事部暴力団対策課でやっていた拳銃の摘発を専門化するため、全国の警察に「銃器対策課」が作られる。だが、不思議なことに対策課は刑事部ではなく、防犯、風俗、少年犯罪などを管轄する「生活安全部」に設置された。拳銃摘発には「エス」(スパイの頭文字)と呼ばれる協力者を使った情報網や特殊な捜査手法が必要になるのに、そういうノウハウを持たない部門が担当することになったのだ。「拳銃を挙げるというのは容易ではありません。人手も時間もかけて情報を集めて、百回ガサを入れて一丁でるかでないか、そんなものです」と原田さんは私に言う。
 「裏金」の話は後に触れるが、人材も資金もないなかで警察は摘発の数をかせぐことを迫られた。原田さんは言う。
 「この間、けん銃摘発のノルマに追われた都道府県警察は、けん銃の所持者を秘匿してけん銃だけを押収するという『首なしけん銃』の摘発や捜査員がヤクザからけん銃を買うといった違法な捜査に血道をあげた」(http://www.ombudsman.jp/policedata/doushin.pdf
 《首なし拳銃》とは、「匿名の通報によって駅のコインロッカーから発見された」などと発表された摘発拳銃のことで、ほとんどは「やらせ」だった。暴力団覚醒剤や他の犯罪を警察に見逃してもらう代わりに拳銃を出すケース、さらには警察官自身が「購入」した拳銃を自分で「発見」する自作自演も多数あったといわれる。
 そのやらせが新聞に書かれ発覚した。すると長崎県警は「とかげの尻尾切り」に出た。「やらせを主導」したとして大宅さん一人を懲戒免職にした。そして大宅さんだけが銃刀法違反で起訴され、執行猶予つきだが有罪判決を受けた。大宅さんとともに現場にいた警官、大宅さんに指示した幹部らはお咎めなしだった。
 警察の捜査でワンマンプレーはありえない。しかも捜査班では位が下だった警部補の大宅さんが「主導」すること自体不自然だ。念願の拳銃摘発で成果を挙げようと意気込む刑事部長以下早岐署の警官、そこに大宅さんたち応援組も加わってのチームプレイだった。大宅さんが一々上に報告し指示を仰いでいたと、現場で「やらせ」捜査に立ち会った暴力団員自身も証言している。
大宅さんは、35年以上も奉職してきた組織に裏切られたのだ。
(続く)