いま、地方の衰退がひどい。地元のお店もどんどん閉まっていく。お金だけの問題ではない。人びとの心が萎えている。
若い人が都会へと去り、老人ばかりになって田舎がどんどんさびれていくと、住民が地域に対する自信や愛着を失っていく。地元の良さが見えなくなってしまう。すると、ますます地域が病んでいく。
強い愛着を持たなければ、この村、この町を何とかしようというエネルギーは出てこない。それは国家も同じである。「日本なんてダメなんだ」と国民、特に若者が思っているようでは、この国に将来はない。今の日本に欠けているのは愛国心だと思う。
日本を占領したアメリカは、軍国主義の一掃という名分において、「日本的なもの」をつぶしにかかった。一時、柔道、剣道はもちろん歌舞伎、能にいたるまで禁止する政策を採った。
戦争で「国のために命を捧げた」のに、それは間違っていたとされ、戦争を否定するだけでなく、国を愛すること自体を軽視する、さらにそこから進んで愛国心を罪悪視する風潮を生み出した。
戦後民主主義教育を受けてきた私たちは、国家とか愛国心という言葉自体に悪いイメージを持ってきた。高校の校歌に「国家の運命雄雄しく負わん」というフレーズがあったが、当時私は「なんて反動的な歌詞なんだ」と強く反発していた。今から考えると、私たちが受けた教育は、明らかに行き過ぎていた。若者は国家の運命を負うべきなのだ。
私の言う愛国心とは、今の自民党政権下での日本を全面肯定することではない。いや、愛するがゆえに、いっそう厳しい批判を可能にするのである。それは「よかれ」と思っての批判である。子どもを叱ることにも似ている。
愛国心を訴えると、こういう批判が出てくる。
《子どもが親を慕うのと愛国心は同じです。日本の四季がいいな、食べ物がおいしいな、そうやって愛国心は自然に生まれるもので、教え込むものではありません。》
実践的には、何もするなというのだ。
しかし私は、愛国心は「自然」には生じないと思う。むしろきちんと教えないといけないのだ。
地域おこしに関わっている人にこんな話を聞いた。
ある島に、東京の大学の学生がゼミの合宿でやってきた。「いいところですね」と言っても、島の人たちは「ここは何にもない島だ。いいとこなんかない」と答えるだけだった。大学3年生のある女性が、島の素晴らしさに感動した。すごい行動力の持ち主で、自力で資金を調達して映画を作った。彼女が気に入った場所を選んで、そこを映画のロケーションにした。できた映画を観て、島の住民は自分の住む島がいかに「いいところ」であるか、気づいたという。
第三者に指摘されてはじめて、郷土の良さを知ることは多い。
見失っている日本の良さに気づかせることが、今の教育に求められているのである。