長井健司さんの葬儀にて

takase222007-10-08

きょう午前11時から長井健司さんの盛大な葬儀があった。
10時45分ごろ会場の青山斎場近くで、大勢のミャンマー人たちが、そろいの柿色の上着とロンジー姿で歩いていた。写真は会場の待合所で撮ったもの。「私たちミャンマー国民は長井さんのことを一生忘れません」などと書いた紙を掲げていた。
4人が弔辞を読んだ。キャスターの鳥越俊太郎さんは、8年前のザ・スクープ東海村の臨界事故を取り上げたときのエピソードを紹介した。これ以上近づくなというラインがあったのだが、長井さんは山路さんとともに、それを超えて事故現場に近づこうとしたという。
田丸美寿々さんは、今年の初夏、北朝鮮の偽札に関する長井さんの中朝国境取材を放送したことを披露。私たちは10年前から北朝鮮の偽札の取材を行っており、主にテレ朝のサンデープロジェクトで放送していた。報道特集も偽札を扱っていて、かなりしっかりした取材だったので、取材者は誰なのかと気になっていた。あれが長井さんの取材だったとははじめて知った。また報道特集では、6年前、長井さんの取材によるタイのエイズの子どもたちを放送し、大きな反響があったという。その施設ではいまも、長井さんは「ケンジお父さん」と呼ばれて慕われているという。
長井さんを取材の師としていた嘉納愛夏さんによると、取材現場ではイケイケの長井さんだが、同時にとても優しい心を持っていたと言う。イラク入り直前のアンマンで、難病の子どものための紙オムツを集めていたそうだ。「私たちは取材で死ぬとは思っていませんが、思ってもみないことが起きるのが現場です」という嘉納さんの言葉に同感。
長井さんが最後にテレビに登場したのは、亡くなる前日の26日夜。日本テレビ「ニュースゼロ」で、「ヤンゴン滞在中の日本人」として電話インタビューの音声が流れたという。キャスターの村尾信尚さんによると、27日の午後2時に電話があり、「次はそちらの午後4時半に電話します」と言って切れたという。意外だったのは、ニュースゼロの今年最初の特集が、小平市役所に盗聴器が仕掛けられていた問題で、これが長井さんの取材だったという。また、この番組で、長井さんが、中朝国境に覚醒剤の試薬を持ちこんで、白い粉が覚醒剤と実証したそうだ。
長井さんが、中東の戦争報道だけでなく、いろいろな取材をしていたこと、中朝国境で、私たちのテーマと重なる取材をしていたことを知り、彼をより身近に感じるとともに取材への熱い意欲に敬意を持った。
そのあと、ミャンマー人の代表が長井さんの功績に感謝し、祖国が民主化されたあかつきには、長井さんは「英雄」として永遠に歴史に残ると語った。
きょうの葬儀はAPFの社葬で、葬儀委員長は社長の山路徹さん。山路さんの挨拶は、同業者が勇気付けられる、とてもよいスピーチだった。
「伝えるべきことがあれば、行かなくてはならないところがあれば、そこに行く。消防士が火に飛び込んでいくように、これが私たちの使命だと思います。長井さんが身をもって示してくれた遺志を、確実に受け継いで、これまでどおり、粛々と、淡々と、立ち止まることなく、また迷うことなく、信じる道を歩いていきたいと思います」。

ミャンマー軍による長井健司さん殺害に抗議する」のサイトに長井さんが最後にお茶を飲んだ日本人の話が載っていたので、以下に転載する。

長井さん殺害の数時間前
現地時間のお昼ごろに、長井さんも泊まっていたホテル。
(ビューティーランドホテルⅡとかいう名前だそうです。美しい国?)
そこのホテルで泊まっていた人たちが
ホテルの横のカフェで四人でお茶をしたんだそうです。
情報をいただいたのは
勤務先のお店の仕事でミャンマーにきていた23歳の男性。
他には現地でボランティアをしている日本人男性、
長井さんと長井さんの通訳がいたそうです。
長井さんはミャンマーの甘い紅茶を
おいしい、おいしいと飲んでいたそうです。

ミャンマーに詳しいわけではない長井さんが
現地滞在歴のあるボランティアの男性に
ミャンマーの現地情報をいろいろ聞いていたそうです。
そこに、23歳の男性の現地にあるお店のスタッフから
ミャンマー政権は誰でも発砲するようだから注意してくれ」
とのメールが飛び込んできたそうです。
23歳の男性は長井さんに、メールの中身を伝えて
「危ないですよ。注意してください。あまり近づかないで」
と話したそうです。
すると長井さんは少し微笑みながら
「地を這うような取材がしたいから、死ぬ気でゆきます」と
答えたそうです。
そして
「もしも死んだら日本にビデオテープを送ってください。」と
すこし冗談ぽく、お願いされたそうです。
あの優しい目はやっぱりにこにことしていたそうです。