鬼海弘雄「他人にも自分にもやさしくなれる写真を」

 医療崩壊じゃなくて行政崩壊のなか、季節はめぐり、もう「処暑」(しょしょ)になった。暑さが止まるという意味だが、まだまだ残暑はきびしそうだ。
 23日から初候「綿柎開」(わたのはなしべ、ひらく)。28日から次候「天地始粛」(てんち、はじめてさむし)。9月2日からが末候「禾乃登」(こくのもの、すなわちみのる)。 

 新里芋が出てくるころだが、今年の山形の芋煮会は、このご時世、やはり中止なのだろうか。
・・・・・・・・・
 去年9月の鬼海弘雄さんのトークショー、きのうの続き。

 きのうの話題に少し補足すると、浅草で人間を撮影することについて、鬼海さんはこう語っている。

 《浅草を「場の触媒」と考えていた。インパクトのある被写体を求めていろんな町に出かければ効率はあがるが、人間の数だけが無機的に増えるコレクション図鑑になるきらいがあると思ったので、あえて撮る場所を定点にした。それでも、ゆくゆくは浅草の地をまったく知らない海外の人たちにも、何度でも観てもらえるようなポートレート集にしたいと願って通い続けた。》

 アンジェイ・ワイダ監督が、鬼海さんの写真に魅せられてポーランドで写真展を開くが、そのとき「ポ―ランド人は日本人と同じだね」と言ったそうだ。人間の普遍性を撮るという鬼海さんの撮影意図が、世界的な評価につながっているのだろう。

 人物を撮るときに背景を写しこむと、写真がその人の人生ではなく、こういう状況の中にこの人がいましたという「情報」になってしまう。そこで、背景はつぶして浅草寺の朱色の壁をバックに撮影することにしたという。

 《何十年も同じことを続けているのに一向に飽きないのは、人間の森の深さが持つおかしさと不思議さなのだろう。
 長い間続けているのに、人物を選ぶ基準はいまでも自分でよく分からない。あえて言葉にすれば、ポートレートを観る人たちが、普段持っている人間に対しての堅くなりがちな情とイメージを揉み解し、豊かなひろがりをもたらしてくれる人物と思っている。こだまのような波動が、生きることを少しだけ楽しくしてくれるからだ。
 ますます功利に傾斜しがちな現代社会では、他人(ひと)に思いを馳せることが、生きることを確かめ人生を楽しむコツだと思っている。そのことによって、誰もが、他人にも自分にさえもやさしくなることができるかもしれないという妄想を持っている。》(『PERSONA最終章』より)

 解説はこのくらいにして、きのうのトークの続きを―

 

 あるときから、人に「時間差」があると思い、10年、15年経って撮ったのがありました。
 すばらしい絵画というものに、写真という下品なもので何かできるとすれば、「時間差」だろうと思ったんですね。
 時間差を思い出すとき、例えば夫婦、友達を並べて撮れるというか。それを思いついたんですが、それだけで進めると、完全にコンセプトアートみたいになるから、写真集に5組ほしいなあと思って。全部それでやると、思い付きが透けて見えるから。そうすると現代アートっぽくなって意味がなくなるから。
 夫婦で撮ってなくても、一人でも、同じように人間背景を見れればいいと。少なくとも5組と思って撮りました。

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右が「中国製カメラ『海鷗』を持った青年」(1986)。左が「四十歳になったという、中国製カメラを持っていたひと(15年後)」(2001)

〈百々氏が、鬼海さんは、浅草寺ポートレート、東京の町と、写真のテーマが少ないことを指摘。〉

 人物の中にその人の生きた時間が撮れるんだったら、町も空間としての町ではなくて人の暮らしの染み込んだ写真が撮れる。それはまったく人間を撮るのと同じ、コインの裏と表として考えていく。

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町の「肖像」を撮る。『東京夢譚』より

 ヒマだから、歩いて、3本くらいの連載しかやってない。3本を、縄をなうようにやってきただけで。他の仕事なんか全然来ないからね。まあ、しょうがないから一人遊びをしているわけです。

 大工さんの写真を2本目か3本目に撮った時、日本人の肖像が撮れると思ったんです。

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大工棟梁(1985年)。鬼海さんはこれで日本人の肖像で「いける」と確信したという。

 それまでは、肖像といえば、ギリシャ系の彫りの深い人が肖像になるので、日本人のような扁平な顔の人たちは肖像にはなりにくいだろうと頭の片隅で思ってたんですけど、そんなことはない。同じような喜びや苦しみを抱えているはずだから顔にならないはずがない、と思って撮ったんですね。

〈インドでの撮影について〉

 最初の滞在は7ヵ月です。写真を撮るというより、インドが好きなんです。インドの空気を吸って・・。

 写真というのは、1日このくらいの仕事して、なんてやってたら仕事にならないんじゃないか。トータルにずうっと、森をつくるみたいなもんで、深く、深く。
 そのかわり、写真を「写真ごとき」とは言わせない。詩人や小説家と勝負しよう、という感じ。表現がどれほど完成度があるか。

 私はチェーホフはずっと好きで、大学時代に買った中央公論の全集、何回も読んでるんですけど、「この高みにはとても行けないな」という感じですね。このゆるやかななかに、やさしさ、きびしさがあって、写真家としてライバルになろうとは思わないですね、すごいなと。いつかたどり着きたい、その裾野くらいには行きたいと思って。

 でも、バカですよね、こんなのに憑りつかれてね。カネもないし・・(笑)
 こんどインドの写真が、『SHANTI』として『PERSONA最終章』と同じ筑摩から出る。(去年10月に出版) 

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    どのくらいの時間撮ってるのかなと数えたら、1日5時間で、5日で1枚でしたね。

 退屈したところからしかモノゴトは始まらないんですよ。アスリートみたいにストップウォッチ持ってやってんじゃなくて、何をやってんだ、というところから。モノゴトがなんか皮膚から染み込んでくるみたいなところから。
 興奮しているところからは、なかなか写真にはならない。退屈して、たぶん自分で撮るんじゃなくて「撮らされる」、「たまたま写った」というのが写真になるのかもしれない。
 
 金がないのは自分に能力がないからですよね。
 自分に篠山紀信さんみたいに力があってああいう形で(キャリアを)始めたら、こんな不良めいた考えはおこさないでしょう。どっかに、自分のコンプレックスを埋めるためにやる。
 たぶんコンプレックスって、みなさんが思うようなダメなものじゃなくて、それが、その人なりの土壌、土をつくる上で絶対必要なものなんです。コンプレックスをごまかして、普通の価値観を受けいれると、浅くなる。たぶん。
 一日行っても全然撮れない日が三日くらい続くと、非常に不機嫌になって、かみさん大変ですよね。(笑)

〈インドでの病気について〉

 コレラやったし、肝炎、犬に2回かまれました。(笑)

 インドでの暮らし方を日常にしないと写真は撮れないから。観光みたいになっちゃうから。見飽きないもの、退屈なもの。自分にとって退屈な、自分の今までの体験、経験が重要になって、それがないと個性、オリジナリティが生れてこない。
 オリジナリティというのは、選ばれたものの特権ではなくて、もしかしたら誰でも持ってるものかもしれない。

 写真が、誰でも撮れる、シャッターを押せば写ると言うのはメーカーのたわごとであって、それぞれの体験を形にすることができるという意味で、写真がいままでの表現形式とレベルが違うというのは。写真はそういうものだ。それにもう少し気付いてほしいという感じなんですけどね。

 たとえば写真の審査員なんかしていると、みんな、どこかで基準を持ってて、ここ100点、90点というのがあるんですね、そんなの壊して、地球が悪いんだと。素人に対して言うんじゃない、人間に対して言うんだね。
 普通のひとは、浜辺にヤシの木のシルエットがあれば、撮らざるをえない。晴着を着た娘がいれば撮る・・・でも「そんなもの撮るか!」ってですよ。心が震えて迷いながら撮っていくのが・・。誰でもいいっていうように撮らないでほしい。
 それができるのは素人、メシを食っていない人の特権なんですよね。私のようなこと言っても、審査員から賞に合格なんてならないと思いますが。審査なんてどうでもいいから、自分で写真集なり、詩集なりを出すつもりで森を築けばいい。

〈独特の魅力的なキャプションについて〉 

 あなたの体験から物語をつむいでください。ということで、私が説得することではなくて、それぞれの物語を作ってくださいという形でキャプションをつけますね。
 カメラの前に立ってもらう時間はほんとに短い、1日5分くらいとか。さっき撮った人のキャプション何にしようかなと考えています。

〈百々)45年1000人撮ったということですね。(鬼海さんによると28歳のときから1100人撮影したという)〉

 バカだよね。でも憑りつかれるってそういうことなんだよね。
 10時19分の列車に乗って、11時15分に浅草に着くわけ。そこから3時間くらい、全然空振りのときが多い。

 浅草に行くまでによく読んでる本があって、電車の中にもってく。幸田文さんの『台所のおと』、これはすばらしい本で。あと開高健さんの本かな。
 チェーホフはあらたまるから家でしか読まないけど、幸田文さんの『台所のおと』、料理の話なんですが、人の死について非常にいい短編がある。講談社文庫で表紙がテーブルにお銚子が乗ってる写真で、読むと全然違っていて。幸田文さんというのはすばらしい文章を書く人で、機会があったらぜひ読んでみてください。合う人には何度も木霊のように響いてくる。
 (電車で)本を読んで、自分の共鳴板を乾かして人を見つけにいく。 

 1日に3人も撮ると、ツキをなくすのではと思ってすぐ帰りますね。(笑) ツキみたいなものはあって、出会いというのか、自分で計算したものじゃなくて。そのときは「養老の瀧」でビールを飲むと。(笑)
 浅草の「養老の瀧」って、一人で行くと楽しいんですよ。周りのテーブルの人の話が非常に面白くて。銀座のおねえちゃんの話なんて・・行ったことないですけど。指紋のついたジョッキで飲む方がどれだけおもしろいか。(笑)
・・・・・・・・・・・
以下、会場での質疑応答

Q私は関西出身で、先生は山形出身だが、地域性を意識するか?

 若いころ、関西に1年か2年住んでみたいと思っていました。私は浅草の人を撮っているわけじゃなくて、人類を撮っている。海外の人が見ても、人類とは何かというのを見せたいと思っていて。浅草の「下町」とか「人情」とかいうのは一切排除しています。
 たまたま私のスタジオが浅草であって、ヨーロッパの人が見てもアフリカの人が見ても、そこに同じ人間というものを発見してもらえればありがたいと思ってますので。
 大阪の新世界に私がカメラを持って行っても(意味がない)。浅草に限定している意味ですよね。

Q町の写真に関心があるが、いま町が変わっているのでは?

 流れとしては、新しい家は、ショートケーキみたいな家でね。人が住んでる悲しみなんかにじみ出てこなくって。どこに行っても同じようで。
 観察者の勝手な言い方だけど、街がうすっぺらに、どこも同じになっていく。商店街でも同じですね。チェーン店が同じものを同じ値段で売って、同じ標準語で話して。

 下町歩いてると、この店まずそうだけど、入る価値がある、なんて店がある。(笑) 暖簾をくぐると、カウンターで夫婦げんかしていたりすると、「いやー、これはいい店に来たなあ!」と。(笑)

 でも今はどこに行っても同じような価値観になって、人間の基準が同じようになっている。カネを持っているかとか、飾るのはダイヤモンドとかルイビトンとか。
 そんなものじゃなくて、錆びてて魅力あるってのがあるでしょ。黒サビになると錆びないんですよね。そういうのがなくなって、町が平坦になってきて、まあ、政治もそうですけどね。ちょっと悲しいですね。

 それは圧倒的に、人の働きが時間給に変わったからですよね。もとは手に職を持った人が下町だった。今の浅草つまらないですよ。観光客だし。昔は、カネをかけなくとも楽しめる場所だったんですよ。全然知らない同士が話し合ってて、友達になって、そのまますっと帰る。ああ、いい街だなと。

 ところが今は観光客が多いから、浅草寺自身が、あまり人に留まってほしくないんだね。(笑) だからベンチはなくす。回転率悪いのはダメ、お賽銭だけおいてって感じで。
 どこも「平坦」になってますよね。

 でも人間はもう一回、ルネサンスみたいなのが来て、人間に生きる意味があるんだということを問い直すんだと思います。それは商品や見えるもので示すものではないかもしれない、時間がかかるかもしれないですが。
 みんな、表現者になればいいんですよ。

〈最後に〉

 たくさん集まっていただきありがとうございます。これで心置きなく死んでいけます。(笑)
 もう少し体を取り戻したら、町を歩いて撮ってみたい。少し歩けるようになったら、それだけ撮って終わりにしようかなと思っています。町の写真も退屈しながら撮ったんですけど、よく、カネにならないことをやってきたな。
 町の写真はみな晴れの日です。歩いて気持ちよくなんないと。(笑) 雨の日に撮る写真家はいない。雨の日を撮るとすごく狭くなる。意味、味が一色になる。朝方だけとか撮ると、意味がすごく狭められるし。晴れた日だけですね。
 で、知らない行先のバスに乗って、この辺で降りようかなと降りて、あっちの方に駅があるから、きょうはあっちに歩こうかと10キロくらい歩いて。それで1枚くらい撮れるかどうか。3枚、4枚撮れることはない。
 そんなに簡単に報われるものではない。自分の判断を緩めると仕事は緩みますから。

 時代をまたぐようなものを撮りたい。100年先の人たちが見ても、同じような人間の悲しみとか・・。悲しみを持ってない人は人間になれませんから。
 そういう意味で、報われないけど、それに騙されて撮ってます。

 でもこのシリーズ(人物の肖像)は終わりです。10枚、20枚撮って加えることはないです。もうほんとに一巻の終わり。(笑)
 最終章です。

 

 

鬼海弘雄「お互いゆるやかに生きることが文化の希望」


 久しぶりに母親の様子を見に自転車で出かける。コロナ禍で外に出ないせいか、めっきり足腰が衰え、補助器を使っても歩くのが困難になったという。
 こうした体の機能の減退は多くの高齢者に共通だろう。認知症の症状が一気に進んだなどの話も聞く。生活形態が一変したことによる健康被害である。

 その行きかえりに見た花々。咲くべくして咲いている。

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百日紅が歩道を覆っている

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車道に張り出して咲くキバナコスモス

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ハナトラノオオシロイバナの競演

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 8月4日、鬼海弘雄作品展 王たちの肖像」を観に行こうと思ったら、2日前に終わっていた。残念・・

www.jcii-cameramuseum.jp

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つい酔っ払って、喧嘩をしてしまったという男。「王たちの肖像」の一枚。

 鬼海さんは尊敬する同郷の写真家で、写真だけでなく、文章も語りも実に魅力的である。 
 トークショーが好きで何度かうかがった。「おんなじことしかしゃべっていない」と鬼海さんはおっしゃるが、失礼ながら、古典落語みたいなもので、何度聞いてもおもしろい。哲学する写真家と言われるだけあって、笑ってお話を聞きながら、根本的なことを考えさせられる。

 鬼海さんのオフィシャルサイトに、去年9月に入江泰吉記念奈良市写真美術館で開催された、百々俊二氏とのトークショーYoutube映像があった。

www.youtube.com


 がんの治療に入られてから初めての、そして久々のトークショーだった。
 Youtubeで聞いてもらえばいいのだが、文字に起こしてみると、また違った味わいがある。鬼海さんの魅力の一端をお知らせしたく、紹介してみたい。(省略したり補ったりした箇所があります)

 

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 こんにちは。
 半年前からがんになりまして、頭もこうなっております。(帽子をとって髪のない頭を見せる)

 歳が歳なんで、「がんですよ」と言われても驚かないんですよね。
 いま、3冊くらいの本を出すのがリーチかかってて、なんでこんなにぴったし時間通りにいい病気が来たんだろうという感じで。3冊を出したいと思っております。

 1冊は『PERSONA最終章』と同じ出版社、筑摩から。同じ判型、同じ値段で。

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 『SHANTI』という写真集(去年10月25日発売)。ヒンズー語ですが、ハッピネスとは違う。
 ハッピネスというのは、欲望に割と忠実で、モノを持つとかいうこと。シャンテというのはもっと自然体で、不仕合わせもあたりまえ、という感じで受け取る。

 日本が農業国家だったころ、40年ごろまでは就業人口の60%くらいは農業ですから。そういう自然と一緒に生きてる社会の仕合わせ感、「仕方ない」と言ってそれでも欲望に振り回されないという。そのシャンテというタイトルでつくります。

 あとエッセイ集をつくって。秋に元気になったら、もう一回暗室に入って。東京をずーっと撮ってきたんですけど、それを1冊の本にしたいと思っています。
 佐伯(剛)さんが作ってくれた『Tokyo View』という本とまったく時代が重なるわけじゃないですけど、長い間撮ったやつです。

 写真撮り始めたときから、これしか撮ってないですから、人物は。(とぐるりと見まわす)

 ふつう、カメラ持たないですし、浅草の壁に行かないと人物写真は撮らない。
 ポートレートがその人の生きてきた内面というか、価値観というのが撮れるんだったら、人が住んでる街にも、単なる空間でなくて、暮らしの生きざまが写るんじゃないかと、人物写真とほとんど同時に街の写真も40何年間続けています。

 急激に社会が変わる時代に生きてきたものですから、たぶん人類の歴史のなかで、私たちほど、近代という形で生活形態が変わったのを経験した世代はいなかったはずです。
 朝飯のとき、薪で飯を炊いているおふくろの姿を見ているわけですし、稲作では腰を曲げて稲を刈る作業を見ている。そういうのが一挙に消費経済になっていって、世の中が急激に変わってきて。こんな変化を経た世代は全世界を通してないと思うんですよね。

 それがどのような形で蓄積して、知、知識という形でしか次の世代には伝えることがないと思うので、それがちゃんと伝えられるかどうかが、非常に重要なのかなと思っております。

 この会場に来るときに見た仏像の顔の良さ。「現代美術って何だよ!」って感じですよね。あれは「私が考える」というのより、もっと深い祈りとか、時間を隔てたときにしか持てない価値観ですよね。自分たちが生きてるときを代表しての仕事じゃなくて、もっともっと、祈りとか何百年という信仰がないと。

 例えばインドにアジャンタ、エローラという、石に掘った石仏群がある。私は行ったことないんですけど。一体彫るために300年くらいかけてノミを振るって一体ができる。それはどういうことかっていうと、人間が持っている時間の幅が全然違うということですよね。

 近代になって、欲望とか、得するとか。そうなると祈りがなくなっちゃって、いかに儲けるかとか、になってきて。
 ああいうもの見ると、人間というのは自分が生きてる時間だけじゃなくて、時代をまたぐ価値観がないと、お互いにゆるやかに生きられないんだろう。お互いにゆるやかに生きるっていうことが、文化の一番希望だろうなあと。
 前置きが長くなりすぎました。(笑)


〈百々さんが鬼海さんの経歴を紹介。

 1945年3月18日、山形県生まれ。高校卒業して県庁職員になるが、そこを辞めて、法政大の哲学に入って、写真を始める。法政の哲学の福田定良先生(雑誌に写真論を書いていた)のゼミにいて影響を受ける。〉

 
 県庁に入って親は喜ぶわけです。当時昭和38年で、山形あたり他に仕事ないわけですから。ちょうど急激に近代化という形で、社会構造が変わる時代だったんですね。いままでの農村、地域、血縁とかから都会、近代化というふうに。

 自分には実務的能力が全然ないんですよね。
 高校卒業して、今まで丸坊主だったのが髪を伸ばしていいし、背広着ればバーなんてとこも行けるしね。(笑) ああ、大人の世界っていいな、でもすぐ飽きるよね。それで、何かしたいと思って、大学に行きたいと。

 一番実務と関係ない学問は何か。哲学という無駄な学問があるらしいと、そこに入った。そこで、ほんとに仕合わせというか僥倖で、福田先生にめぐりあった。先生には生涯、36年間お世話になることになりますが、当時34冊くらい本を出されてて、映画評論も書いていた。

 山形で映画見たのは娯楽ものしか見てなくて、人間を描く映画っていうのがあるんだなとびっくりしたんですよね、それで表現といっても文章書くのは相当頭のいい人であって、私なんか出る幕はないと思ってたんです。それで、映像の魅力を感じたんです。というのは、文章というのは上から啓蒙みたいに流せるけど、写真、映像は、見る人が自分を主役にして読まないことには言葉が出てこない。

 映像はおもしろいと思って、福田先生と映画について話すようになって、親しくなって。映像について考えてみようと思った時、卒業が来たんですけど、定職を持つ気になれないで、いろんな肉体労働をして、25歳で写真を撮り始めて。

 最初、写真はシャッター押せば簡単に映るから、私くらいの能力でも写ると思ってはじめたんです。
 ところが、写真ていうのは実に「写らない」ものだと知った時から写真家になったんですよね。写真を、自分の、生きることの中心においてもいいかもしれないと。それでメシを食うなんて、思っていませんでしたけどね。

 

〈百々さんが、写真家は食えないということとデビュー作のマグロ船の写真(カメラ毎日)について話を向ける。〉

 

 写真撮るために船に乗ったのではなく、漁師として乗った。もちろん一番下っ端で。27歳のときだから。
 運動能力が一番さかんな中学、高校卒業するころからやらないと立派な漁師にはなれないです。

 25歳で写真はじめたけど、いかに写らないか、1年か2年たつとハタと気付くんですよね。似たようなものばっかり撮ってて、人のマネするような写真ばっかり。
 どうしたらいいんだろうと思った時、「自分の立ってる場所を変えよう」と思ってそれでマグロ船。私は百姓の息子で、体を使う仕事はそんなに嫌じゃなかったから。
 そのとき始めて写真を撮った。1台のカメラで撮って、280日くらい海にいたんですけどね。フィルム8本くらいしか撮らなかった。
 (鬼海弘雄オフィシャルサイトで一部を観ることができる)

hiroh-kikai.jimdofree.com


 (写真を掲載した)『カメラ毎日』の山岸章二さんという伝説的な編集長、すごい力のある人、根性悪かったですけど。(笑) 「写真家になったら」と勧められて、じゃあ写真撮ろうと思って。そしたら私の先生(福田先生)えらいですよ。体で覚えないと物事はダメだ、と。
 現像っていうのは、自転車と同じで3か月くらいで覚えるんですよね。覚えたからと、写真始めてすぐ撮ったのが、日本写真家協会の新人賞をもらうんですよ。
 それで、「ちょろいなー」と思って。(笑) 早く銀座で、六本木でお姉ちゃんと仲良くなる写真家になりたいなーと思ったんですけど。
 体で覚えるのは2倍か3倍やらないとだめだといわれて、尊敬する師匠だったから、言うこと聞いて3年現像所でいました。

 この(写真展の)写真は1台のカメラ、1台のレンズです。街の写真も同じ1台のカメラです。ハッセルブラッドというカメラの標準レンズ付きです。これ、福田先生が買ってくれたカメラです。 

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愛用のハッセルブラッド鬼海弘雄公式ツイッターよりhttps://twitter.com/hiroh_kikai/status/1164044977082527744

 こうやって撮るんです。(と上からファインダーをのぞく)お願いしてって感じですね。

 写真は、撮りたい人に会うのが非常に大変な作業。それは、文章でもなんでも、探すというのが圧倒的な時間なんで。立ってもらえば、2分とか3分で撮り終わる。

 初任給2万5千円のころ、ハッセルは60万円した。並行輸入でヨドバシで30万円という値段が出てたんですよ。
 福田先生とは、卒業してから毎週金曜日、喫茶店で会ってて、最初の30分はヘーゲルの『小論理学』読んで、あと話題はなんでもいいということで話してて。

〈百々)二人きりで?よっぽど好かれたんだね。〉

 それが躓きのもとですよ。(笑) 恋愛だって気を付けたほうがいいですよ。(笑)
 それで買ってもらったんですよね。たまたま60万円のカメラが30万円という話をしたら、先生は聞いているんだか聞いてないんだか分からなかったが、次に会った時、30万円ぽんと出してくれて。

 私はそんなにいいカメラもっていいのか、と。今だってルイビトンなんか持ってる人、山手線なんかで見ると殴ってやろうかと(笑) ライカをいっぱい十字にかけてる人もいるけど・・。そういうコンプレックスもってる私なんかには使いこなせないし、高すぎるし、(お金を)返せないといったら、
 「そんなこと深く考えることはない。一つのハズミとして買っておけ。自分の体が少し前に行くような気持ちで買えばいいことだから、そんな大げさにかんがえずに買っておけ」と。
 そのカメラで、全部そうです。(とぐるりを指す)人物も街の写真も撮ったのはぜんぶその1台のカメラです。

 私、映画が好きだったから、同じ映像表現として、写真なんて、誰と誰が浮気したとかどこで事故があったかとか、同じ映像表現でも映画、アンジェイワイダさんとかが好きだったんですけど、写真表現は一過性でしか表せないもの、表現としては実に浅いものだろうと思っていたんです。 

 そのとき、ダイアン・アーバスの写真をみて、ふつうの街の人を撮った写真が、なぜ繰り返して見ることができるのか、繰り返し見ても飽きないのかと思って。見る人の心の隙間に入ってくるというか、自分を思い出したり、自分を考えたりする写真があるんだ、と。
 見飽きない写真があることをダイアン・アーバスで教えてもらった。

 映画は共同作業で、自分はできない。制作費を取り戻すために誰にでも見てもらえる映画でないとだめだし、そういう能力はないし。写真だったら、カメラ1台あれば自分の表現ができるかもしれない
 そのかわりメシを食うということではなくて、メシを食わなければ一生続けられる。と思って写真を選んだ。

 カメラ1台と30ミリと望遠レンズだけでいい。ただハッセルブラッドってレンズだけで30万円くらいしますからね。レンズを買えない。となると、買えないことが自分の写真を規定する、質を規定する。レンズ1本で撮るということの意味を考えて、自分の写真にしていく。という意味で取りはじめた。
 あんまりフィルムは使わない。(被写体)2人で1本、12枚撮りで。以前は1本で3人とか。

 撮りたい人をさがすのが大変なんです。ずっと見ててさがす。さがすと壁に立ってもらって5分はかからない。ありがとうございましたで終わり。
 圧倒的に撮りたい人をさがす。なんでもそうなんだ、文章でもね。さがすときにいろんな人を見るから、作文のような文章を書くのでその準備をしている。さがすときに人の影をみる。

 いくらドラマチックな人生を歩んでいても写真にならない人がいる。4時間、5時間待っているが、考えたりしているから退屈な時間ではない。電車賃1000円超すので、一人くらい撮らないとなあという感じで。(笑)
 でも低くしないですよ、レベルを。このくらいでもいいというんじゃなくて、ずっとさがして、我慢できるのが、自分の狙ってるものの質を決めると思うから、我慢をできる。

 写真はよほどの幸運な人でないと、「写らない」と分かってから写真家になると思います。文章でも詩でもなんでもそうだと思います。
 みなさんはプラスから物事が発展すると思っているかもしれないが、マイナスから発展することが圧倒的に多いのではないか。

 今の教育制度が間違っているのは、最初から頭がいいとか ルックスがいいとか、その基準が定規のように測るから多様性が生れてこない。どっかで人生って「しょうがない」ということが、ものごとをその人なりにマイナスから気付くんだと思います。
 頭良くて美男子で女にもててって最悪でしょ。(笑)

〈百々氏、写真を撮る5分の間に言葉をかわすかと尋ねる。〉

 そんなに聞かないですね、どこからいらっしゃいました、って感じですね
 その人が撮られたいポーズを持っているが、それを壊すのが大変なんですね。踊りを踊ってる人なんて、こういう(とポーズ)。(笑)

 こうしてください、ああしてくださいというんじゃなくて、左足に重心を移して下さいとか。そうするとその人なりの・・ポートレートってのは、人の目とか顔じゃなくて、首の線とか腕の線とか、人をすごく物語るんです。
 モジリアニという絵描きをご存じだろうと思うが、首が長くてやなぎ形で、だけどあそこには確実にその人の個性とか 社会的、たとえば娼婦とか分かるような、ああいう感じです。すごく体の線というのが、その人の生きてきた道を表しているのかもしれない。
 こっちが指示したらそれが崩れるので、撮るときの指示はほとんどしないですね。ちょっと左に寄ってくださいとか。体重移動だけくらいですね。

 写真をおもしろがってもらえるのは、その人の力だと思います。他者のなかに自分を発見するから、写真が息づいてその人が言葉を吐くんだと思います。見飽きないということはそういうことなんだと思います。

 この(浅草寺の)壁以外で人を撮らないわけです。
 親切な人は、こういうおもしろい写真撮るなら大阪新世界とか沖縄に行って撮ったらもっと面白いんじゃないですかというけど、それをすると、「図鑑」になってしまうんです。
 大阪で撮った、ヨーロッパで撮ったと、図鑑になるから。私の煮込み料理はこの鍋一つという感じですね。だからレンズ一本と言うのはOK。 

〈百々)浅草寺の壁は鬼海さんのスタジオですね〉

 まず、行って壁が汚れていたら掃除する。(笑)
 (壁は)5か所くらいある。壁まで歩いてきてもらって、撮って。

 困るのは友達同士できて、一人がおもしろいという場合。そういう場合、本命でない方から撮らないと・・(笑) 「私、先に行くわと」か言われて。(笑) 本命じゃない方から攻めて本命を撮る。いろいろありますね。

 でも圧倒的に断られることはないですね。
 「なんで私みたいなのを撮るの?あっちに晴着を着たお姉さんがいるじゃないの」と。「いやいや、あなたですよ!」と(笑)

 みんな自分を表現したいというのは人間本来のものなんですよね。それぞれ自信があるから、自殺しないで生きているわけですからね。

 サングラスも取ってくださいとはいわない。サングラスもその人のパーソナリティだから。サングラスを取ってください、マスクを取ってくださいとは言わないですね、そのままでけっこうです。
 入れ墨も彼女といっしょにいてちょっと見える、「じゃ見して」と。(笑) 
 筑摩の雑誌にそれを載せたら、「ヤクザを表紙にするのか」とひともんちゃくあったそうです。(笑)

(つづく)


 

がんばれ!「リンゴ日報」

 私は「市報」をちゃんと読むことはまれなのだが、前号の第1面に農業体験の募集が載っているのが目にとまった。

 以前から、「自分の食べる野菜くらいは作りたいな」と思っていたところ、失業して時間ができたので、ちょうどいい機会と申し込んだ。
 コロナ禍で、田舎暮らしやアウトドア、農業への関心が高まっているというが、私も世のトレンドに乗っかったわけだ。

 市の募集には「市民農園」と「体験農園」があり、前者は農地だけ借りて各自勝手にやるもの、後者は地主の農家から手取り足取り指導してもらうもので、ド素人の私はもちろん後者である。

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 きょう、炎天下のもと午後2時半から、はじめての作業があった。次回の種まきの準備ということで、2時間ひたすら雑草取り。腰は痛くなるわ、暑さでくらくらするわで、すぐにさぼりたくなったが、私より年上の団塊の世代の参加者ががんばっているのを横目で見て作業を続けた。汗だくで作業を終え爽やかな風にあたると、やはり何かしら達成感があり、さらに、畑に成っているナス、トマト、モロヘイヤ、シソをどっさりいただき満足して帰ってきた。

 これから土をいじることで何か発見があればと思っている。
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 きょうのTBS「報道特集」で香港を特集していた。
 このごろ香港報道が少し減った感があるので、みなさんの関心を喚起するため紹介したい。

 番組VTRでは、先日国会前で行われた香港支援デモに参加した在日香港人の何嘉軒さん(21)が登場する。何さんは、旅行が好きで北海道から九州といろいろ回り、観光を仕事にしたいと日本に留学している。

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デモで「光復香港」(香港を取り戻せ)と訴える何さん

 メディアに本名で出るのは非常に危険だ。国安法は世界のどこであれ適用され、彼が広げた「光復香港」のスローガンがすでに法律にひっかかる。香港に帰ったら逮捕をはじめ様々な不利益をもうむる可能性がある。
 「家族に迷惑をかけたくないから、こっち(日本での)行動は何も言っていない。香港の現地は圧倒的に絶望感がすごいです」という。リスクは覚悟している。今は日本という安全な場所にいるので、発信を続けたいという何さん。この勇気を応援したい。

 香港では今月10日に周庭さんら10人が逮捕されたが、当局の本命のターゲットは民主化を唱える「リンゴ日報」(アップルデイリー)の創業者、黎智英さん(71)だったといわれる。

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 黎さんは12歳のときに大陸中国から脱出し、香港で苦労を重ね「ジョルダーノ」という衣料品ブランドで大成功を収めた立志伝中の人である。89年の天安門事件で政治に目覚め、95年に中国本土の民主化も視野に入れ、メディアに進出した。

 10日には「リンゴ日報」本社に200人が家宅捜索に入り、30箱分の資料を押収し、職員全員の個人情報を調査したという。メディアへの弾圧は、言論封殺の要だ。

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200人態勢で「リンゴ日報」本社を家宅捜索

 香港のテレビ、新聞、出版などの大きな企業には中国資本が入り、当局や中国共産党に批判的な言説は締め出されている。
 黎さんはいう。多くのメデイアのオーナーは中国本土で事業をしているから、好待遇を受けて事業で利益を上げようとする。「ひどい場合は、中国共産党の代弁者にもなります」と。

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「リンゴ日報」紙面には広告がほとんどない。広告を出せば、企業が当局から睨まれるのを恐れるからだ。

 しかし、香港人はこの弾圧にただ沈黙していただけではない。いつもは7万部刷る「リンゴ日報」は弾圧翌日、55万部を印刷したところ、市民が争って購入し当局への抗議の意思を示したという。

 黎さんは、生まれ変わっても同じ道を歩む、これは私の「運命」なのだから、とあくまで闘い続けると決意表明していた。

 今年6月、公共放送RTHKの風刺番組「頭條新聞(Headliner)」が打ち切りに追い込まれた。31年にわたって鋭く政治を風刺する寸劇を放送してきた人気番組だった。それがアップルデイリーが「頭條動新聞」として復活させた。そのキャスター、曾志豪さんが日本の視聴者に語ったメッセージは―

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曾志豪さん

 「今は香港人が国際的な呼びかけをすることはとても危険なことです。私たちはただ日本の皆さんに香港への関心を持ち続けてほしい。自由がある国に暮らす皆で支えあうことが大切です」

 そんな「支えあう」関係を築いていきたいとあらためて思う。

ホロコーストとホロドモール

 ホームレス支援の雑誌ビッグイシュー』が「コロナ緊急3ヵ月通信販売」をやっているので申し込んだ。
 この雑誌は、ホームレスの販売員が街頭で450円で販売し、うち230円を本人の取り分として自立を支援する。
 ところがコロナ禍で、街頭販売が激減しピンチになっていた。そこで急遽、通信販売を呼びかけているのだ。よろしかったらご協力をお願いします。

https://www.bigissue.jp/2020/06/14325/

 8月1日号が届いた。

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 表紙は『赤い闇』の主人公、ガレス・ジョーンズを演じた英国出身の俳優、ジェームズ・ノートンだ。『ビッグ・イシュー』はいつもタイムリーな特集を組む。

 もう一つの特集は「三つの石がつくった地球」で、現在の地球ができるのに大きな役割を果たした「橄欖(かんらん)岩」「玄武岩」「花崗岩」を取りあげた。地球は「水の惑星」と言われるが、むしろ「石の惑星」だという観点から地球誕生と進化の歴史に迫るもの。ちょうど太陽系の進化を勉強している私にとって、こちらもいいタイミングの特集だ。

 さて、第一特集のジェームズ・ノートンのインタビュー。

 英国で生まれ育ったノートンも、ガレス・ジョーンズ記者については「実を言うと名前さえ聞いたことがなかった」と言う。

 「だからこそ、この映画は自分にとって、そしてきっと多くの人にとっても重要だと思いました。彼についてはほとんど語られてこなかったのです。彼が伝えようとしたことは、ソビエト政府の策略や、それに協力したジャーナリストたちによって『虚偽』(フェイク)とされてしまったからでしょう」(ノートン

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飢饉について、ジョーンズ記者が初めて署名入りで書いた記事(1933年、ロンドンの新聞The Evening Standard
www.garethjones.org

 ノートンは『赤い闇』の台本を初めて読んだときのことを、「恥ずかしながら、そこで起きていた飢饉、つまり『ホロドモール』についてはほとんど知りませんでした」と語る。

 「ホロドモール」とはこの惨事をあらわすウクライナ語だ。
 ソ連当局がひた隠しにした飢餓による犠牲者の数は今なお確定できていない。Wikipediaでは「400万人から1,450万人が死亡した。また、600万人以上の出生が抑制された」と記している。

 映画のロケはウクライナで行われたそうだ。気温マイナス15度のなか、飢饉の時からほぼ手つかずの状態で残されていた村での撮影は「異様な雰囲気が漂うと同時に、胸が絞めつけられた」と言う。

 「学校の授業でヨーロッパ史第二次世界大戦を学んでいる時、ホロコースト』については多くの時間が割かれました。でも、ホロドモールは国によって解釈が違うこともあって(注)、それを歴史的事実として認めさせるための闘いが今なお続いているんです。だから、ウクライナで会った人々はみな、映画を通してそれを伝えようとしている私たちに感謝してくれました」(ノートン

注)「ホロドモールは国によって解釈が違う」とは―
 ホロドモールが政策的・人為的な飢饉だという点は現代の歴史学者の間でほぼ一致しているが、これがウクライナ人という民族を標的にした大量虐殺であったかについては意見が分かれている。
 2006年、ウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定したが、ロシア政府は「ジェノサイド」ではないとしている。
 要はウクライナ民族を狙い撃ちしたのか、穀倉地帯を収奪した結果ウクライナ人が犠牲になったのかの解釈の違いだと私は認識している

 ヒトラーの「ホロコースト」は糾弾されるのに、スターリンの「ホロドモール」は十分に語られぬままになっている。ここには大きな不均衡がある。

 これまでの全体主義による犠牲者を俯瞰すると、右の全体主義(ナチズム)よりも左の全体主義共産主義)の方が人数では優に10倍を超す。それなのに、共産主義による虐殺は、その重要性に相応した質と量で糾弾され、調査され、責任を問われてこなかった。なぜか。

 最大の理由は、第二次大戦でナチズムは敗北し、ソ連は勝者となったからだ。結果、ナチズムについては、ユダヤ人虐殺など「人道の罪」の実態が暴かれ、責任者は断罪され、アウシュビッツはじめ収容所は保存・公開されて今なお世界から見学者が訪れる。

 一方、ソ連は米英仏などとともにナチズムと戦った連合国=「正義」の陣営に属し、戦後、国連の常任理事国になった。のちに中華民国に替わって中国(中共)が常任理事国におさまり、社会主義諸国(共産圏)は世界の「勝ち組」、いわば主流になったのである。西側諸国は、共産圏の犯罪の真相究明を強く迫ることをためらった。

 東欧諸国でのソ連のさまざまな犯罪は、極秘扱いにされ、比較的知られたケースでは「カチンの森虐殺事件」(大戦中にソ連軍がポーランド人2万人以上を集団銃殺した事件、ソ連ナチスドイツがやったと発表した)をソ連が認めたのは、ペレストロイカのあと1990年になってからだった。(ただ、ロシア政府は「あれはスターリンがやったこと」として済ませ、謝罪していない)

 共産主義権力による虐殺―ソ連、中国、北朝鮮カンボジアなどなど―には共通のメカニズムがある。そしてそれはコミンテルン共産党のなかで受け継がれてきたと私は思う。
 ソ連の「ホロドモール」は中国の「大躍進」に、さらには北朝鮮の大飢餓へとつながっている。

 映画『赤い闇』の上映を機に、左の全体主義による悲劇に光が当たってほしい。

 共産主義は大量殺戮を引き起こす「構造」を内包しているのか、というのが私の問題意識である。
(つづく)

 

早紀江さん「悲壮感はあってないような」

 連日猛暑ですが、みなさん、お元気ですか。東京都だけで熱中症で130人を超す方が亡くなっているとのことで、十分ご注意ください。

 17日は浜松市で41・1度を観測。これまでの熊谷の観測史上最高気温1位に並んだ。

 かつては山形市が1位だったはずだが。と新聞に載った歴代ランキングを見ると―

1位 浜松市中区   41.1 2020年8月17日
   埼玉県熊谷市  41.1  18年7月23日
3位 岐阜県美濃市  41.0  18年8月8日
   岐阜県下呂市  41.0  18年8月6日
   高知県四万十市 41.0  13年8月12日
6位 浜松市天竜区  40.9  20年8月16日
   岐阜県多治見市 40.9  07年8月16日
8位 新潟県胎内市  40.8  18年8月23日
   東京都青梅市  40.8  18年7月23日
   山形市     40.8 1933年7月25日

 山形の40.8度はもうだいぶ下になってしまった。
 こんなランキングに載るのは誇るべきことではない。暑くて大変なだけなのだが、子どものころは「山形が一番」というだけで喜んでいた。そのうち、たしか庄内の酒田市でものすごく暑い年があり「猛暑で電線からスズメが落ちた」と冗談のような話を聞いた。(ほんとに冗談だったのかもしれない) 
 そのあと、ランキングの1位が山形市、3位が酒田市になったのを覚えている。

 現在のランキングから、21世紀になって、特にここ2~3年の暑さがすさまじいことが分かる。山形市の記録はなんと87年も前、昭和8年のことだ。
 温暖化を実感させられる。

 仰天したのは、6月20日世界一寒いとされるロシア・シベリアのベルホヤンスクで出たとんでもない記録。38度!きょうの東京より高い気温だ。
 ベルホヤンスクは「寒極」とも呼ばれ、1892年に氷点下67.7度の最低気温が報告されたところだ。日本から「寒極体験ツアー」も出ている。6月の最高気温の平均は20度だという。

www.euras.co.jp

 永久凍土の融解が進むと、地中からCO2よりはるかに温室効果の高いメタンが放出されることが知られており、さらに温暖化が進むことになる。何とかしないと。

 コロナ禍で世界中で経済・社会活動が抑えられ、結果、はじめてCO2の排出量が減少しているそうだが、悲しいんでいいのか、喜んでいいのか。一筋縄ではいかない世の中だなあとため息をつく。
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 きのう、NHK横田早紀江さんの単独インタビューを放送していた。拉致問題解決には、自ら発信することが大切だと思い取材に応じたという。

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 滋さんの臨終のさいには―
 「大きな声で“天国に行けるよ。今までがんばりすぎちゃったけど、私もいつか行くから必ず待ってて”と声をかけました。
 私も全身全霊を尽くしたつもりだし、お父さん(滋さん)もそうだったと思う。
 本当に大変な別れだけれど、悲壮感はあってないような感じです
 天国にいったので、やっと休めているなと思います
 (滋さんは)闘い続けてきて本当に我慢強かったし一生懸命でした。
 お父さんのことも、“亡くなっちゃった、どうしよう”となるのと同じで、“お姉ちゃん(めぐみさん)どうなってるんだ”と毎日思っていたら、今まで生きていられませんでした。
 自由がない人たちを当たり前の生活に、というのは親の責任です。最後まであの人(滋さん)も一生懸命思って闘っていました。
 私たち(二人)同じですから、同じ思いできたので、私が倒れるまではがんばります
 (拉致被害者を)帰国させてもらわないとダメです。全部(の人を)。連れていかれた人全部を取り返し、日本に連れ戻すというのが日本の責任です。そのままにしておくのは本当に考えられないことです。
 (私たちは)全部言ってきました。あとは政治の力がどこまで試されるかです
 間違いがないよう、よい外交で北朝鮮が「うん」と言うように、(みんなが)帰って来られるように、進めてもらえば、一番ありがたいです」

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拉致される前年の1976年、最後の家族旅行になった新潟県佐渡島にて

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滋さんと早紀江さんは1997年4月から街頭に立って活動してきた

 滋さんという長年の同志を「天国で待っててね」と送り出し、その死を「悲壮感はあってないような感じ」で受け止めたという。

 先月、電話でお話したときに、喪失感に打ちのめされているふうではなく、声にも力があったので少し安心したのだが、今回のインタビューでは、なにか吹っ切れた感じさえあって、早紀江さんの強さを感じた。

 早紀江さんはまた、自分は「倒れるまでがんばる」けれど、私たちはもう全部言ってきたから、「あとは政治の力」でちゃんとやってくださいよと言っている。
 表立ってはあまり言わないが、早紀江さんは、今の政治には大きな不満を持っていて、もっとしっかり!と叱咤していると理解した。

 安倍首相は隠れてばかりいないで、拉致問題含め、国民の命を守る政治をしてもらいたい。

「飢餓」か「食糧不足」か:ジョーンズ VS デュランティ

 IKKT(クメール伝統織物研究所)の岩本みどりさんが、「伝統の森に来た気分になりたい貴方に」として、村(伝統の森)の中心部までの道行きの動画(約3分)をFBにアップした。
 IKTTとは、このブログではおなじみの、森本喜久男さんがカンボジアの伝統的な絹絣(きむがすり)を復興・活性化するために設立した団体で、養蚕から糸紡ぎ、染め、編みまですべて手作業の工程をそなえた村が「伝統の森」だ。関心のある方はどうぞ。

www.facebook.com


 電気もコンビニもないこの村には、年間1500人もが訪問し、リピーターも多い。みどりさん(森本さん没後、村を仕切っている日本人スタッフ)が、「伝統の森」ファンに、コロナ禍のなか、旅行気分だけでもとアップしたのがこの動画だ。

 残念なことに、村の入口の門が映っていないのだが、村に入ったところから森本さんが暮らしていた建物までのドライブショットは、全部、村の敷地である。
 3分近く、ずっと森が続くのが分かると思うが、ここは、誰も見向きもしなかった荒れ地を、森本さんと当時のスタッフらが人力で開墾した土地で、はじめ木はほとんど生えていなかった。一本一本、自分たちで植えてきた「手作りの森」だ。

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2003年、荒れ地を開墾する森本さんとスタッフ。ゼロから作り上げた村だ。

 今後、行く機会があったら、村に宿泊することをお勧めする。私は、満点の星とホタル、そして森の暗闇から聞こえてくる様々な生き物の声に魅了された。いつかまた行きたいなあ。
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 映画「赤い闇」の主人公、ガレス・ジョーンズについてもっと知りたいと思い、ネット検索した。それで前回の情報を補足する。

 ジョーンズは、1930年夏に3週間と1931年夏に1ヵ月、ソ連を取材している。その取材にもとづいていくつかの記事を書くが、このときは匿名で発表したようだ。

 1933年3月、ソ連への3回目の取材行に出かけ、3月7日に当局の目をごまかしてウクライナに潜入する。そこで彼は飢餓のすさまじさを目撃、それは自然災害などではなく人為的なものだと確信した。3月29日にベルリンに戻ってプレスリリースを出すと、多くの欧米の新聞に掲載されたという。

 以下は、プレスリリースのさわり;

 いくつかの村と12ヵ所の集団農場を回った。どこでも人々は泣き叫んでいた。「パンがない。死んでしまう」と。この叫びは、ボルガ地方、シベリア、白ロシア北コーカサスそして中央アジアと、ロシアのあらゆる場所から発せられている。私は黒土地帯(注)へと入っていった。それは、そこがかつてロシアで最も肥沃な農地だったからであり、ジャーナリストが現場に行って自分の目で何が起きているかを見ることが禁じられていたからである。

 そこに向かう列車の中で、一人の共産党員は私に飢餓が起きていることを否定した。私は自分のカバンから取り出して食べていたパンの皮をタンツボに投げ捨てた。すると乗客の農民がそれをそこから取り出して食べた。オレンジの皮をタンツボに投げ入れると、その農民はまたそれをつかみ上げてむさぼり食った。共産党員は黙ってしまった。 

 私はある村に泊まったが、そこはかつて牛が200頭いた村だったのに、いまは6頭しか残っていなかった。農民たちは、牛の餌を食べており、それもあと一ヵ月しか残っていなかった。すでにたくさんの人が餓死したと私に言った。二人の兵士が泥棒を捕えにきた。兵士は私に夜の移動をしないように警告した。飢えて何をしでかすかわからない人々があまりに多いからだという。

 「私たちは死ぬのを待っている。でも、ここにはまだ家畜の餌がある。もっと南部に行ってごらん。そこにはほんとに何もない。たくさんの家が、人が死んで空き家になっている」と言って、彼らは声を上げて泣いた。

注)黒土地帯とは― 肥沃な黒色土が広く分布し、世界的な小麦の産地になっている地帯。ウクライナから西シベリアの南部にかけての地域などをいう。チェルノーゼムと呼ばれる。(大辞林より)

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ウクライナ。当時はソ連邦の共和国だった。チェルノブイリ事故やクリミア半島をめぐるロシアとの対立などで知られるが、世界有数の穀倉地帯である。

 ただし、ジョーンズのリポートの評判は良くなかった。当時の知識層はソ連に同情的だったからだという。

 ジョーンズのプレスリリースの直後の3月31日、「ニューヨークタイムズ」紙は、ピュリッツアー賞受賞記者、ウォルター・デュランティ記者の"Russians Hungry, But Not Starving".(ロシア人は腹を空かせてはいるが、飢えてはいない)の見出しの記事を掲載した

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ウォルター・デュランティ (1884 –1957) 米国で最も高収入の記者(ソ連駐在の米国大使なみだったという)といわれた

 デュランティ記者は、ジョーンズの報告を「壮大なこけおどしのストーリー」だとして否定し、「餓死」ではなく、栄養不良で病気になって死亡する人がいるだけだと、ソ連当局に迎合したのだった。(Wikipediaより)

 「飢餓」ではなく(単なる)「食糧不足」だとするレトリックで、実態を覆い隠し、現状を正当化したのである。

 ジョーンズは、4月13日の「フィナンシャル・タイムズ」紙の記事で、飢餓の原因として、個人農の強制的集団化、600~700万人の「クラーク」という最良の働き手の排除、穀物と家畜の強制徴発、増加する食糧輸出を挙げている。

 これこそ的確な指摘である。

 ロシア革命以降、共産主義(運動)が、ロシア、ウクライナはじめ中国や東欧、カンボジアなど多くの国々で、1億人におよぶ人々の命を奪うことになるが、その根幹は農業の集団化にあると思う。

 4000万人が犠牲になったとされる中国の「大躍進」は、ジョーンズが取材したソ連の32‐33年の「ホロドモール」と呼ばれる大惨事の繰り返しと言ってもよい。
(つづく)

「焼き場に立つ少年」が訴えるもの

 きょう、内閣府今年第2四半期(4~6月)の国内総生産GDP)速報値を発表した。年率換算で27.8%減少という衝撃的な数字だった。リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17.8%減を超える戦後最大の落ち込みとなった。

 米国は32.9%減で、統計の記録を開始した1947年以来最大の減少率だった。

 一方、中国はプラス成長を達成し一人勝ち。ついに第2四半期のGDPで米国を抜いた。年間で米国を上回るのももうすぐだろう。
 コロナ禍は、世界のパワーバランスを大きく変えるかもしれない。

 そんな勢いを増す中国にどう向き合うか。コラム「高世仁のニュース・パンフォーカス」6回目を公開しましたので、関心のある方はどうぞお読みください。 

www.tsunagi-media.jp

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 この夏の戦争特番の中で印象に残った一つに、8月8日の ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」がある。

 《原爆投下後の長崎を訪れた米軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」。近年ローマ教皇によって取り上げられたことで世界から注目を集める写真だ。しかし撮影から75年経つにも関わらずその撮影日時や場所は謎に包まれたまま。番組では米軍が戦後九州で撮影した約4千枚の写真を主な手がかりに写真を多角的に分析。原爆孤児らの証言をひもときながら「焼き場に立つ少年」が生きたはずの戦後の日々を見つめる》(番宣より)

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 死んだ弟をおぶって焼き場にきた少年だ。
 彼が弟の遺骸をもってきたということは、おそらく家族を亡くして孤児になったのだろう。

 押し寄せる悲しみを全身に力を入れて何とか耐えているような姿。そして何という表情だろうか!

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 少年は何を思っていたのか。この後、少年はどうなったのか。感情をゆさぶられながら、つぎつぎに問いが湧いてくる。

 番組では、長崎原爆で家族を失い孤児になった人が何人か、証言者として登場した。彼らは、この写真を見て、当時の自分たちを思い出して涙を流していた。

 私は、つらいだろうな、不安だろうなと状況を懸命に想像しながら少年の思いに迫ろうとするが、孤児体験者と同じようには写真に入り込めない。
 しかし、少年の気持ちを想像することで、自分の戦争の記憶のストックとでもいえるものに積み重ねられていくものがあるのを感じる。それが、戦争にかぎらず、映像やインタビュー、文書などの記録・表現を後世の人に伝えていくことの意味の一つではないかと思う。 

 この写真を撮ったのは、第5海兵師団カメラマンジョー・オダネルで、『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館)という本が1995年に出ている。

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1945年9月2日に佐世保に上陸した第5海兵師団のカメラマン、オダネル軍曹。上陸24時間で佐世保の海岸に造られた見渡す限りのテント村にて。一つのテントに10人を収容する。「いったい何人が占領軍として上陸したのか、私には見当がつかなかった」(オダネル)。

 オダネルは、高校を卒業してまもなく、19歳のとき、真珠湾を奇襲した日本に敵愾心を燃やし、海兵隊に志願する。カメラマンとして養成されたオダネルは終戦直後に日本に上陸、7ヵ月にわたり各地を撮影するが、「苦痛に耐えて生きようと懸命な被災者たちと出会い、無残な瓦礫と化した被爆地にレンズを向けていくうちに、それまで敵としてとらえていた日本人のイメージがぐらぐらとくずれていくのを感じた」という。

 アメリカに戻ったオダネルは、悲惨な記憶を封印するように、私用カメラで撮ったネがをトランクに入れて鍵をかけた。意を決してトランクを開けたのは1990年のことだった。写真を公開し、日本で写真展が開かれたのが1992年。彼の写真が知られるようになったのはここからである。

 少年の写真について、オダネルがこう書いている。

 《長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り投げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に私はたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

 焼き場となっていた川岸には、浅い穴が掘られ、水がひたひたと寄せており、灰や机片や石灰がちらばっている。燃え残りの木片は風を受けると赤々と輝き、あたりにはまだぬくもりがただよう。白い大きなマスクをつけた係員は荷車から手を足をつかんで遺体を下ろすと、そのまま勢いをつけて強烈な火の中に投げ入れた。はげしく炎を上げて燃えつきる。それでお終いだ。燃え上がる遺体の発する強烈な熱に私はたじろいで後ずさりした。荷車を引いてきた人は台の上の体を投げ終えると帰っていった。だれも灰を持ち去ろうとするものはいない。残るのは、悲惨な死の生み出した一瞬の熱と耐え難い臭気だけだった。

 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?》(P96)

 ページ下の小さなキャプションには

 《この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた》とある。

 今回番組ではオダネルが日本で撮った大量の写真をチェックして謎解きをしていく。

 オダネルはあくまで軍事写真を撮るために派遣され、日本が占領政策を守っているか、軍事施設や武器などが確実に破壊されているかを確認するなどの任務を持っていた。
 ところが、次第に子どもたちにカメラを向けるようになり、敵味方を超えた人間性に目覚めていったとみられる。

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子どもを撮った写真

 番組の最後は、原爆投下を正当化するかという質問にジョー・オダネルが答える肉声だった。

アメリカ人として原爆投下直後に街を歩いてどう思ったか?)

オダネル】(原爆は)間違いだと思った。

「原爆がアメリカ人や日本人の多くの命を救った」と言う人々に言いたい事は?)

オダネル】(原爆は)何も救わなかった。罪のない人々を殺しただけ。私の考えに同意しない人がいるのはわかっている。でも、我々はおばあさんやおじいさん、子供を殺した。


(無意味な虐殺だったと?)

【オダネル】そうだ。

 アメリカの軍人であるオダネルが、原爆は「何も救わなかった」と答えているのである。勇気ある発言であり、誰も否定できない説得力がある。

 あの焼き場に立つ少年を撮影したことも、彼の考え方に大きな変化をもたらしただろう。今も少年は写真の中から私たちに多くのことを訴えかけている。

・・・・・・・・

 1995年夏、アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が計画した「エノラゲイ展」は、広島・長崎の被爆遺品資料そしてオダネルの写真も展示する計画だった。ところが、退役軍人を中心に市民から猛烈な反発が起き、エノラ・ゲイ以外の展示はキャンセル、館長は辞任に追い込まれた。
 アメリカで起きた最初の「原爆論争」だったが、最近では、とくに若い人のあいだで原爆投下は間違いだったと考える人が増えているという。時代は少しずつ変わってきているようだ。

・・・・・・・・

 なお、NHK長崎は去年夏にも同名の番組を作っている。

 その時は、少年や撮影場所を特定したのだが、のちに取材に協力した人たちから「不適切報道」などと抗議を受けている。かなり強引なつくりをしたようだ。少年はこの人だと特定した人物は別人と判明したという。
https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf
https://hodanren.doc-net.or.jp/news/teigen/190908_yosei_nhk.html
 今回はもっぱら、オダネルの写真からの謎解きと、孤児になった子どもたちの境遇、思いを考えるつくりになっている。批判を踏まえてか、撮影された場所も特定していない。