日朝交渉の闇―2000人のうち帰国できたのは36人

takase222014-11-05

ああ、もう11月か。
こんどの日曜は、町内会の公園の手入れがあるとお知らせが回ってきた。ついこないだ、手入れしたと思ったのだが、もう一年がたったのか。ほんとにはやいな。
うちの会社は11月が決算月で、銀行との交渉、税理士との打ち合わせなど、お金に関する用事がいろいろ出てくる。私にとって秋は、お金の心配をする季節でもある。
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写真は、香港第二の発行部数の新聞「蘋果日報」(りんご日報)のビル。
屋上からビル壁面に《我要真普選》の標語を垂らしてある。
真の普通選挙を求める、という意味だ。
りんご日報、エライな。
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さて、1956年の初めての日朝会談で、残留日本人の帰国を進めたいと思って平壌に乗り込んだ日本赤十字だったが、北朝鮮側は在日朝鮮人北朝鮮への「帰還」という全く違う議題を出し、揺さぶりをかけてきた。
この北朝鮮のやり方を、日本赤十字側は非公開文書にこう書いている。
「彼らは自らの主張を変えたり、妥協したりする必要はないと考えている」
「相手の考えは周囲の状況によって、変えることが可能であり、それで十分だと考えている」

1ヶ月の交渉の最終段階で、日本側は、在日朝鮮人の問題について、
「解決のために、あらゆる妥当な方法を考えよう」と言及させられた。
北朝鮮側の粘り勝ちだった。

あまりのごり押しに、席を立って帰国しようとした日本側派遣団に、北朝鮮側は、残留日本人に会いませんか、と持ちかけ引き留めたという。
帰国を希望する48人があらかじめ平壌に集められており、うち36人が平壌会談の1か月後に帰国している。(12人は「競争の厳しい資本主義社会に不安を覚えた」などとして帰国をとりやめた)

この後、日朝間の焦点は、在日朝鮮人の「帰還」の問題になり、1959年から北朝鮮への「帰還」が実際に始まった。
では、肝心の2000人いたとされる残留日本人の帰国はどうなったのか。
実は、10万人近い人々が北朝鮮へと海を渡る大々的な「帰還」が実施される一方で、残留日本人は、その大半が消息さえ不明のままになっている。

先に紹介した、残留日本人、山澤佐一郎さんについては、北朝鮮赤十字から、こんな消息がもたらされた。
「刑務所内で日本人が暴動を起こして処刑した」
息子は、当時70近い親父が、そんなことをするとは考えられないという。ひょっとして、朝鮮戦争のときのどさくさで殺したんじゃないかとも考えている。番組では、「心の傷は大きいですよ」と語っていた。

日朝会談の非公開文書をジュネーブで発掘した川島高峰准教授は、いまの拉致被害者を取り戻す交渉が、当時と同じだという。
56年の平壌会談のときの48人が今の拉致被害者で、日本側が調査したかった2000人が特定失踪者。構造は同じではないかと言うのだ。

やり方をみても、交渉のテーマを別のものに設定しようと押しまくる。日本側の要請に対しては、ごく一部をちらっと見せて、あとは死亡か行方不明とし、いいかげんな消息を言い渡す・・・2002年をも彷彿とさせるではないか。

「刑務所内で暴動を起こして処刑」は、北朝鮮に「帰還」して消息不明になったチョ浩平(ホピョン)氏のケースを想起させる。
アムネスティが一度だけ北朝鮮に入って「調査」したことがあり、そのときに北朝鮮側は「スパイ容疑で逮捕された後、1974年に脱獄と国外逃亡を試みたため、一家全員を射殺した」と回答したのだった。
http://hrnk.trycomp.net/mamoru6.php
私はこのアムネスティ北朝鮮担当にインタビューするために、ロンドンまで行ったことがあった。チョさんの妹さんが仲間と声を上げたことから、人権団体が支援し、この回答(全くのでたらめに違いないが)を引き出した。北朝鮮が個人の消息を回答したきわめて稀なケースである。


処刑されたとされる山澤佐一郎さんは、家族への手紙で、短歌を書き送っていた。
「健やかに大和の土を踏むまでは生きてしあらん行く年ふるとも」