ミャンマーの人々と風土―ABSDFスパイ粛清事件⑥

takase222013-05-02

 写真は、ミャンマー北部ザガインの田舎にある無料診療所。
 お寺に無償で土地を提供してもらい、住民有志から寄付を募って去年開設された。医師は三人が交代で診療に当たる。診療所の運営スタッフはみなボランティアで、医師と看護婦だけには少ないが報酬が出る。

 ミャンマーの田舎では、医療を受ける機会が非常に限られる。少ない医師は都市部に集中しているうえ、多くの貧しい国民が医療費をまかなえないからだ。
お金がなくても行くことができる診療所が近くにできたことは、この地方の人々にとっては画期的なことだった。待合ホールには、お年寄りや赤ちゃんを抱いた母親がたくさん順番待ちしていた。
 黄色い服を着ているのは、20代前半の若い女医さん。患者の半分愚痴のような質問にも笑顔を絶やさず、やさしく答えている姿が実に美しかった。彼女が現れると周りがパーッと明るくなる。こういうのを「オーラ」というのだろう。取材そっちのけで、うっとりと見とれていた。
 「私には、お金より人々のために働くことのほうが大事です」とためらいなく言う。その口ぶりには何のてらいも感じられなかった。
(あまりにも魅力的だったので、私は診療所スタッフにそっと「彼氏はいるの?」とたずねた。「いる」そうだ。)

 この診療所は、ABSDF(全ビルマ学生民主戦線)北ビルマ支部でかつてスパイ容疑者として激しい拷問、虐待を受けたオンチャインさんという男性が人々に働きかけてできた。オンチャインは、当時、処刑リスト16番目に載っていた「スパイ」だった。92年の集団処刑では15人が殺されたのだから、あやうく命を落とすところだった。

 私にとって意外だったのは、診療所のボランティアに、オンチャインさんの仲間の元ABSDFメンバーが何人もいたことだった。
 同志に「スパイ」の濡れ衣を着せられ、40人近くの仲間が処刑されるという地獄のような体験を経たら「挫折」して社会問題などには背を向けてニヒルに生きても不思議ではないと私は思っていた。
 日本の団塊の世代には、元学生運動の活動家たちがたくさんいる。多くは、風邪が治ったかのように「脱皮」して、損得勘定の「フツー」の暮らしに融けていった。少数は挫折してポッキリ折れてしまった。
 しかし、ミャンマーの彼らは、今も現役で闘っている。「闘い」が生活から分離していないというか、生活そのものになっているようなのだ。ポッキリ折れたりしないのである。
 オンチャインさんは、無料診療所の開設、運営のほか、軍事政権時代の開発事業で土地を不当に奪われた農民の支援活動にも熱心に取り組んでいる。民主化はまだまだだし、国民の生活は以前として改善されていないという。
 92年の集団処刑のあと、オンチャインさんは拘束されていた場所から脱走し実家に戻った。いまは、田舎で養鶏をしながら、妻と子ども二人の4人でつましく暮らしている。
 自宅は、はじめ作業小屋かと思ったほどそまつな草葺で、部屋は6畳ほどの空間が一つあるだけ。収入を聞くと、一年で日本円で数万円にしかならないという。村の秀才として大学まで進んだ彼は、自ら貧困の中にあって、世のため人のために働いている。たんたんと気負うことなく生きている。
 見ると、その家に不似合いに大きな写真が掲げられている。処刑された元議長、トゥンアウンジョーだった。オンチャインさんは、彼のリーダーシップを見習いながら活動しているという。

 不当に殺されたトゥンアウンジョーら無実の活動家たちの、社会を良くしたいという思いが、この田舎にこうした形で引き継がれ、息づいているように思えた。私の中に静かな感動が広がっていった。

 今回取材で会った「元スパイ容疑者」たちは、みな社会改革の活動を今も続けていた。
 私は過去いくつもの国の「活動家」に会ってきたが、この国の人々の、何か突き抜けた「善意」と底知れぬ粘り強さは独特だと思う。こうした人々を生み出す「風土」とはいったい何だろうか。
 診療所の取材を終えて帰る私たちを、オンチャインさんの小学校4年の娘が見送ってくれた。
 将来何になりたいの?と聞くと、身もだえして恥ずかしがりながら「お医者さんか、歌手」と答えた。
 あの診療所の美しい女医さんにあこがれているのだろうと想像した。この子の願いがかなえられるように心から祈る。

 今回の取材で、この国がいっそう好きになった。