四代目、玄榮が漆山に出てくる前は、高世の家は、現在の長井市の草岡にあった。ここには現在も高世という姓の家が15軒ほどある。高世という姓がかたまって住んでいる土地は、山形県ではここしかない。
十年近く前、本家筋の高世家から連絡があった。うちのご先祖の墓は、祖父の博治の代に漆山の珍蔵寺に移したのだが、草岡にもあるという。その処置をどうするかという相談だった。本家との交流は一世代近く途絶えていたので、私はせっかくの機会だからと、草岡に出かけた。
そこで、高世一族のルーツを聞かされた。今から30年ほど前、ある大学の教授が学生を連れて、草岡までやってきて、ひと夏、高世姓の出自についていろいろ調べて行ったという。その結果、高世一族はもとは漆職人の集団で、上杉家が会津から米沢に移封されたのに付き従ってきた末裔と判明した。
高瀬という集落から来たので、それにちなんでつけた姓だという。なぜ「高瀬」が「高世」に変わったのかは不明だが、高瀬の地名は会津若松市にいまも残っている。会津若松に取材に行く機会があり、そのときそのあたりを散策した。
写真は、高瀬のケヤキとして名高い大木で、観光名所にもなっているという。
http://www.hitozato-kyoboku.com/takase-taiboku.htm
このケヤキ、樹齢500年だそうで、「愛の武将」で知られる直江兼続のころからあったということになる。
《推定樹齢500年の大ケヤキは、上杉景勝が慶長5(1600)年に直江兼続を総奉行として築城を始めた神指城土塁跡にある。田んぼの真ん中に威風堂々とした姿を見せ、大木を取り囲むように、約20本のソメイヨシノが花を咲かせる。
本丸から見て、鬼門に位置し、築城には約12万人が動員されたという。兼続はケヤキを起点に北極星と結び、ちょうちんをともし縄張りをした。だが、工事は数カ月で中止される。徳川家康の会津征伐に対し、白河城の修築を急ぐためだったとされる。面積は鶴ケ城の約2倍。完成していれば、東日本一の巨城になるはずだった。
会津若松市によると、大ケヤキの根元の周囲は12.55メートル、幹回りは10.45メートル、樹高は16メートルもある。昭和16年1月に国の天然記念物に指定された。》
http://www.minpo.jp/pub/topics/meiboku2010/2010/05/post_5.html
上杉家は会津時代120万石あったとされるが、米沢に減移封されて30万石になり、後には15万石にまで減らされた。藩は尋常ではない財政難と借金地獄が続き、上杉鷹山は、これを打開すべく、商品作物の奨励策を打ち出した。
その重要品目の一つに漆があった。
藤沢周平に『漆の実のみのる国』という小説があるが、これは上杉鷹山の漆の振興策をめぐる苦闘を描いている。上杉にとっての漆は漆器づくりのためではなく、ロウソクの原料として位置づけられた。藩を上げての奮闘にもかかわらず、漆を主要財源にしようという上杉鷹山の狙いは、結局、失敗に終わる。
当時、米沢周辺の置賜地方各地に、大量の漆が植えられた。私の故郷の漆山というのもその拠点の一つだったのではないか。子どものころ、山に入るときには、漆にかぶれないように気をつけよと大人たちに言われたものである。
漆職人の末裔の一分家が医業に携わるようになり、漆山という漆にちなんだ地名の村に高世医院を開くことになったことに、何かのご縁を感じる。