「胃ろう」しますか5−情動が理性を制御する

takase222012-04-11

線路そばのフェンス沿いに水仙が咲いている。きっと誰かが道行く人の目を楽しませようと植えたのだ。感謝。

北朝鮮が外国人記者を発射台そばまで呼んで取材させた。ロケットは組み上がって燃料注入がはじまったという。今回は、権力継承で体制が不安定化しているなか、このニュースはかなりの盛り上がりを見せている。
前回、前々回と同様、人工衛星発射が目的ではないのは明らか。それでも、「打ち上げが成功して順調に軌道を回っている」と発表されるのだろうな。さらに発表文には「ミサイルなどとデマをとばし軍事緊張を高めようとする悪辣な帝国主義者の策動は、この事実によって粉砕された」などとも書かれるのでは。いつも同じパターンで動くマンガのような体制である。
過去2回の幻の「人工衛星」打ち上げについて書いた日記があります。ほとんど同じことがおきると思います。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090412,
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090516
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認知症高齢者は「理性的」に考えられないから胃ろう設置について判断できないとして、意向を聞くことなく、医師と家族で決めてしまう傾向がある。
この場合の「理性」を判断材料を比較して自分にとって有利な選択をする能力とすると、上のような考え方には、デカルトやカントに代表される西洋の倫理哲学の悪い影響があると大井さんは考える。
細かい議論はすっとばして、プラトン以降の西洋哲学では、精神と肉体、理性と情動を切り離したうえで、意識により営まれる理性的働きを重視し、身体の持つ動物的働きを低く見て軽視した。さらには、肉体・情動を精神・理性の妨げのように扱う傾向さえあった。
カントは『実践理性批判』で次のように断言している。
「もし意志規定が、道徳法則に適っていても、それが感情(情動)を介してだけ―その感情がどのようなものであるにせよ―行われるならば、従って(道徳的)法則のために行われるのでないとすれば、その行為は適法性をもちはするだろうが、しかし道徳性をもちはしないだろう」
結果的に人を救ったり助けたりしても、それが例えば「かわいそうだ」という情動に発するだけでは道徳的正当性はない。「理性」をきちんと働かせた上での行動でなければならないというのである。
その間違いは、まず、生物進化と無意識の働きを知らなかったことに起因する。
ヒトには意識を支える古層の無意識があり、それは進化の過程を通じて生存の営みを支えてきた。だから、無意識にはいろいろな環境刺激・情報を学ぶつまり認知する能力があるはずなのだ。もっというと、実は、私たちの思考は、ほとんどが無意識でなされていると、認知科学では考えられている。思考の速度が速すぎて、意識されないのだ。
理性第一で情動を低く見る見方のもう一つの間違いは、理性を使って意思決定をするうえで情動が必須の役割をしている事実を知らないことだ。
大脳の「前頭前・腹内側領域」に傷害を受けると、知的能力も身体能力も損なわれないが、平板な情動と感情を持つようになる。「平板」とは、当惑、同情、罪悪感などの社会的情動が減少あるいは欠けているという意味で、結果は、怪しげな事業に手を出す、離婚を繰り返す、頑固と思うと優柔不断、女性の前で卑猥な言葉を吐くなどなど、生存に有利な意思決定ができなくなる。
つまり私たちが、生存に有利な意思決定と行動ができるのは、恥ずかしいとか、きまり悪いといった社会的情動が理性を制御しているからだという。理性が情動を制御しているのではなく、実際は逆なのである。
私たちは、過去の経験と無意識に貯えられた記憶に基づいて、環境中の刺激に即座に反応している。
「私たちは見るもの聞くもの触るものが世界を構成していると思っている。しかし、私たちの脳は、過去の経験と記憶から政界を作っている」(認知科学者スティーブン・コスリン)のである。

これは大乗仏教唯識につうじる。唯識哲学の中心だった興福寺に伝わる和歌にこんなのがある。
手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 
     女中は茶と聞く 猿沢の池
手を打つ音を聞いて、鯉は直ちにこちらに泳いでくる。鳥は向こうに飛んで逃げていく。女中はお茶の用意に台所に向かう、というのだ。いずれも過去の経験と記憶から反応している。それがそれぞれにとっての「世界」なのだ、
また、いずれの反応、対応においても、何らかの情動を伴っていて、それが直ちに行動として現れている。良き生存を保つためには、身体で直ちに反応する必要がある。
このようにみると、社会的情動さらにはその基というべき単純に好き、嫌いの情動は、意思決定し行動に移るのに中核的な役割を果たしていることが判る。
過去の経験で好ましいなら「直感的」に容認できる。過去の経験で苦痛を伴う危険な目にあったようなことなら、やはり直感的に警戒信号が出る。これからとる手段や予期される結果は、情動により標識されている。いずれも意識のレベルで判断材料をあれこれ比較し判断するのではない。それはおそらく全身に関係した身体的判断とでもいうべきものだ。
(脳神経科学者 アントニオ・ダマシオの学説)
では、具体的に、認知能力が衰えていない人が胃ろうをしないと「理性的」に決めるのと、認知症高齢者が「胃ろうはいや」と拒否することにはどのような違いがあるのだろうか。
(つづく)