「胃ろう」しますか4−生命維持にかかわる「好き」「嫌い」

takase222012-04-09

7日(土)、話題のイラン映画「別離」が封切の日、さっそく観に行った。
ベルリン国際映画祭で、最高賞の「金熊賞」を満場一致で受賞、銀熊賞(男優賞・女優賞)も。さらにアカデミー賞外国語映画賞にも輝き、国内外で80もの賞を受賞したという。
冒頭、裁判所での離婚調停からはじまる。11歳の娘の将来を考えて家族で海外移住したい妻と認知症の父親を残しては行けないという夫。裁判官が妻に尋ねる。
「イランの子どもには未来がないと?」
これに対して妻が答える。
「望ましい環境ではありません」
イランには「自由がない」というイメージを持っている人は、この映画がイラン国内で観られていることを意外に思うだろうが、イランは相当に開かれた国なのである。北朝鮮と並べて「人民を弾圧して核開発している国」として扱ってはならない。
すばらしかった。重厚なテーマ、状況設定、俳優の演技、どれを取っても感心させられた。イラン映画の水準は高い。機会があればぜひご覧下さい。
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さて、胃ろうの話。
健康な高齢者に宮城県でアンケートした結果、87%が「経管栄養をしてもらいたくない」と回答した。また、02年の内閣府の意識調査(対象三千人)では、「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」が回答者の81%にのぼった。
おととい、7日の日記で、「認知症高齢者」(50人)に胃ろうについての「意向を尋ねる調査」で8割が「いや」と答えたことを紹介したが、「健康高齢者」と同じ回答分布を示していることが分かる。
しかも、その回答はともに、あれこれ思考した後の選択ではなく、「好き」「嫌い」の直感に由来する回答であろうと想像できる。
では、「好き嫌いを区別する能力」はどんな意味を持っているのだろうか。
能力は「遂行する物事」に応じてあったりなかったりする。金銭計算はできないが優れた芸術家。抽象的思考はできないが具体的物事は出来る人。他人の名前を憶えられないが周りの人と仲良く付き合える人がいる。
日常生活を営む能力が衰えて認知症というレッテルを貼られても、自分が食べるものの「好き嫌いを区別する能力」は最後まで保持されるという。
この能力は非常に重要だ。
物事を決める能力は、動物の進化の過程を見ると環境中の刺激に対し「好き」か「嫌い」の反応を示すことに帰着する。自分の快適な生命維持に役立つ環境刺激のときに「好き」、それを害する場合に「嫌い」と意思表示する。
生物進化の観点から見ると、単純な動物でも、環境中の刺激に対する快・不快を伴う「情動」(emotion)があるという。(ヒトは社会生活を営むより複雑な動物だから、恥ずかしい、可哀そうといった社会的状況に即した二次的情動あるいは社会的情動が生じるが)
ゾウリムシは浮遊しながら食べられるものに突き当たるとそれを食べ、食べられないものだと離れていくが、これも情動的反応だといえる。
ハエを叩こうとすると怒ったようにブンブン飛び回るが、甘いお菓子を置くと止まって穏やかになる。身の危険からの回避行動もエネルギーを取り入れる行動も情動的反応だ。
殻のない巻貝アメフラシの一種はエラに触ると身を縮めるが、血圧・心拍数が上がるのが測定できる。人間に当てはめれば恐怖を表す情動だ。
これらは反射的ではあるが、膝を叩くと足が上がるような単純な腱反射ではない。情動的反応はいくつもの反射が組み合わされ調節された行動だ。それにより動物は、そこに生じている問題に生命維持と言う意味で効果的に対応することができるのだ。
ここから、いよいよ理性と情動との関係に入っていこう。
多くの人が、認知症高齢者には胃ろう設置の判断に必要な「理性」がないという思い込みにとらわれているからだ。
(つづく)