写真はきのう書いた古代道の発掘跡。
幅12メートルの広々とした道路跡は、子どもの遊び場になっている。
今朝の朝日歌壇で佳作に選ばれた松田梨子、わこ姉妹の歌は、お互いを詠んでいる。
妹をかわいがるのと妹がかわいくなるのは比例の関係 (松田梨子)
捨てゼリフ残し飛び出すねえちゃんはけれどもドアを優しく閉める (松田わこ)
あまりに微笑ましくて、自然に口元がほころんでしまう。うちにも娘二人いるので、姉妹の歌には親近感がわくのである。富山県は寒いのだろう、わこさんはもう一首選ばれている。
ほっぺたも鼻もおでこも耳たぶもつぎつぎ泣いた雪の帰り道 (松田わこ)
一方、冬を迎えて、福島を詠む歌には悲しみが深まっていく。
ほだげんちょ、ふくしまの米、桃、りんご、梨、柿、野菜、人もいぎでる (福島市 美原凍子)
俳壇にはこんな句が、
福島のコメが泣いてる寒さかな (香取市 関 沼男)
福島の第一次産業や観光など、土地と結びついた産業に従事する人々への支援をもっと急いでもらいたい。
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以下、きのうの続き。
14日午後8時9分、東電本店で広報部部長の吉田薫が、2号機は「炉の中に水がほとんどなくなったような状況になっています」と説明。
午後10時ごろ、官邸5階の廊下を経産事務次官の松永和夫が行き来していた。
首相補佐官の寺田学は、海江田が「松永次官も東電の撤退をいいに来ているんだよ」とつぶやいたのを覚えている。
午後11時ごろ、ルース米大使と枝野との電話会談で、ルースが「米国の原子力専門家を官邸に常駐させてほしい」と言ったが、枝野は丁重に断った。
15日の0時を回ったころ、枝野が海江田に呼ばれて総理応接室に行くと、海江田、福山、細野、寺田がいた。
「東電が撤退なんていってきて、とりあえず、そんなのあるかっていった」「そうだよね」
枝野は「大事なことだから官房長官も直接電話して下さい」といわれて細野から携帯電話を渡された。相手は福島第一の吉田所長だった。
枝野「大丈夫なんですね。まだやれますね」
吉田「やります。頑張ります」
電話を切った枝野は言った。
「本店の方は何を撤退だなんていってんだ。現場と意思疎通ができていないじゃないか」
だが、2号機の危機は一向に好転しない。格納容器の圧力を抜く弁を開けようとしたがうまくいかない。応接室の雰囲気は次第に重くなっていった。
(以上7日付)
15日の未明。
2号機の圧力を下げる弁は閉じたままで、爆発の危機は続いていた。
総理執務室横の応接室には、海江田、枝野、福山、細野、寺田ら原子力災害対策本部の主要メンバーがいた。保安院付の安井正也と原子力安全委員長の斑目春樹も控えていた。
室内の空気は重かった。後日、官邸側が秘書官や政治家から聞き取ったメモでは;
「撤退についてはみんなどうしようという感じだった。というのも作業員のことが頭にあった。この時の認識ではまだメルトダウンしていないので、常に爆発が念頭にある。このまま線量が高くておかしくなったり、爆発が起こったらどうしようとか、皆が顔を見合わせている状況だった」
福山は「このままでは撤退もやむをえないのではないか、そんな雰囲気が出始めていました」という。
その場の共通認識は;
住民の避難区域は12日は半径20?に広げていた。たとえ原子炉が爆発する事態になっったとしても大量被曝の恐れは軽減されるのではないか。何よりも作業員の生命が危険にさらされている―
福山が「総理に判断を仰いだ方がいいのではないか」と提案。全員が同意した。
菅直人は別の応接室のソファで防災服のまま仮眠を取っていた。震災以来、公邸に帰らず、応接室そばのシャワールームも使っていなかった。
(以上8日付)