東電「撤退要請事件」の顛末

takase222012-01-08

午後、1時間ほど散歩した。
近くには武蔵国分寺跡など遺跡も多く、私の好きな散歩コースがいくつもある。
国分寺は8世紀中ごろの建築だといわれている。古代道の「東山道武蔵路」も発掘されている。これは幅12メートルの直線道路で、古代道の全長は、現在のハイウェイに等しいという。こんな大事業を飛鳥時代にやっていたとは驚きである。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20091017
1300年以上も前の人々が、この辺を、私と同じように「きょうの夕飯は何かな」などと思いながら歩いていたのだろうか。歴史のある場所ではそんな想像がうかんできて楽しい。
ススキが陽に輝いていた。
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晦日、東電の「撤退要請事件」について書いた。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20111231
さらに詳細な情報が5日から「プロメテウスの罠」(朝日新聞朝刊連載)に載っている。朝日新聞が力を入れている連載であり、チームを組んで相当深く取材していることが読み取れる。重要なポイントなので、記事を要約して紹介してみたい。
まず、当時の状況は;
3月14日の3号機爆発が、2号機の弁を開ける電気回路を壊した。そのため、格納容器の圧力を下げる弁が閉じてしまった。
このままだと圧力が上がり続け、建物ではなく2号機の原子炉そのものが爆発する危険がある。午後6時6時22分には燃料棒全体が露出し「空だき」が始まるが、総理執務室には「圧力が高く、原子炉に水が入らない」との危機的な報告が夜8時に届く。
報告を執務室で聞いた菅首相は、携帯電話で福島第一の吉田所長と直接話した。このときの吉田所長の言葉が「まだやれます」だった。吉田所長は「炉内が高圧でも注水できるポンプがあれば」とも言った。
(以上5日付)
そのころ、午後7時から9時までの2時間、東電の清水社長は、携帯電話で海江田経産相に連絡を取ろうとしていたが、なかなかつながらない。
夜10時50分、2号機の原子炉格納容器内の圧力が設計上の限界を超える。日付が変わるころ、格納容器内の圧力を逃がす、最後の弁操作も失敗。清水社長が再び海江田に携帯電話で必死に接触を図る。
はじめて電話が通じたときの清水の言葉を海江田はこう記憶している。
「第一原発の作業員を第二原発に退避させたい。なんとかなりませんか」
海江田は「残っていただきたい」と拒んだ。
枝野官房長官は、日付が15日に変わるころ、自分にも同じ内容の電話が清水からあったと振り返る。枝野は「そんなに簡単に『はい』といえる話じゃありません」といい、電話を切った。
福山官房副長官は、東電が、細野首相補佐官にも同じような電話をしてきた、という。細野は電話に出ること自体を断った。
(以上6日付)