覚りへの道19−宇宙の遊び

takase222010-07-19

 きょうの暑さは格別だった。
カーッと太陽が照りつける中、タマスダレが咲いていた。しとやかな感じだが、人間にとっては毒草で、ノビルと間違えて食べると大変なことになるそうだ。たしかに葉はノビルそっくり。ノビルで思い出した。
脱北者のIさんの家で、ご飯をご馳走になったことがある。そのおかずが、ニンニクと唐辛子で和えたノビルだった。近くの川の土手からいっぱい摘んでくるという。タダなのに日本の人は誰も採っていかないんだよ、贅沢だねと笑っていた。

 つらいときどうするかは人によって違う。
人によっては音楽で癒されたり、飲みに行ったりする人もいるだろう。私は、そういうときに読む本や文章というのがいくつかある。
 中でも癒され、深く元気づけられるのが次の文章。これは「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」という巻を岡野守也先生が解説したものの一部だ。「一顆明珠」とは、唐の禅僧、玄沙が言った言葉で、この世は一つの明るい透明な玉だという意味である。つまり、自分も含んだ宇宙全体、コスモスということだ。

《私たちの生活に置き換えていえば、物事がうまく回るのも回らないのもと言ってもいいし、不安定な状態になるのも安定した状態になるのもと言い換えてもいい。そういうふうに、「おもて」、つまり現われ・現象は変わっていくように見えるが、それはすなわち「命」、コスモスの働きなのである。
自分自身の修行や人生体験と合わせて思うのだが、どうもこの世には不幸も悲劇も悲しみもあっていいようだ。あることはうれしいことではないけれども、うれしくなくてもいいのである。私たちが苦悩したり、絶望したりする。その苦しみの中に、悲劇の中に、絶望の中に「一顆明珠」の働きが隠れている。それに気づかないとひたすら大変なことのように思うのだが、気づくとそれでいいということになる。
こういう視点からすると、不幸はコスモスが不幸ごっこをしているのである。ある時にには幸福ごっこもするけれども、不幸ごっこもする。そして、気づいてみると、それはすべて宇宙の遊びだったということになる。「働き」というとまだ重い感じがするが、すべては宇宙の遊び、「遊戯(ゆげ)」という言葉があるように、すべてのことはコスモスの戯れ・遊戯であると言ってもいいかもしれない》

(『道元コスモロジー大法輪閣より)
言葉遊びではなく、岡野先生の実体験から発せられた言葉だから心に響く。
上に書かれてあることを理屈で分かるのではなく、「腹」から、心の深いところから納得するすることが「覚り」ということだと理解している。