わが心深き底あり喜びも憂の波もとどかじと思う

 晦日になってやっと家の掃除をざっとして、年賀状を書いてポストに入れてきた。テレビをつけると、あらら、もう紅白か。じゃ一杯やらなくちゃ。ということでチューハイを呑みながらこれを書いている。


 年末年始は、あと何年自分に命が残っているかな、と思うときでもある。メメントモリ(必ず死ぬということを思えというラテン語)。
 また、来年は年初からかなりきついトラブルが予想されるから、心が折れないように「武装」しなくては。
 いつも年末年始は思想書を読んで来年に備えるのだが、今回は本格的に、岡野守也先生の『「金剛般若経」全講義』(大法輪閣)を読むことにする。こんどの風邪は酷くなりそうだから強い薬を、という感じ。
 般若経典は大乗の経典のうちでは、(華厳、法華、浄土系に先んじて)最初期に成立したもので、「空」というコンセプトを打ち出した。般若経はシリーズになっていていろんな経典があり、最も長い「大般若経」はなんと全600巻。お正月に各地の名刹では「大般若会」(だいはんにゃえ)が行なわれるが、これは大般若経をパラパラとめくって読んだことにする儀式だ。岡野先生は数年かけて読破したというが、いくらなんでも長すぎる。そこでこれをダイジェストしたのが「般若心経」だが、さすがにここまで短くすると内容にかなり偏りが出てくるし、「色即是空」などとスローガンみたいになって、正確な理解が難しくなる。長めの般若経をきちんと学んだことのない人が見当違いの解釈をしたり、分からなさを深遠さにすりかえる人も出てくる。「曰く言い難し」などと。「金剛般若経」は般若経系のお経の中でも長さもそこそこで大事なポイントを網羅した優れものだそうだ。ちなみに金剛とはダイヤモンドのことで、般若とは覚りの智慧。硬いダイヤモンドで煩悩を打ち砕いた智慧のお経という意味だという。
 この中で、今回心に響いたところを紹介したい。
 それは「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」。「心」は「実体」として把握することはできないということである。
 はじめに前提として、「空」について説明すると、空とは「何も無い」ということではなく、「実体」としてはない。つまり他のものに依拠せずに存在できたり、永遠に存在できたり、変わらない本性があったりするものはこの世にありえないということ。あらゆる出来事や事物は、目の前にありありとある、存在するのだが、それは移り変わる「現象」であって変わらぬ本質を持つ「実体」ではない。もちろん「心」も「空」であって、現象としてあるわけだ。
 「過去心」についていうと、研究が進めば進むほどに、人間の記憶がいかに不確かかが明らかにされている。アドラー心理学的には、その人の現在のパーソナリティの状態を過去に投影してそれを記憶だと思っているということになる。「過去心不可得」。
 また、未来に自分がどう思うかなどは確実に予測することはできないから「未来心不可得」。現在なら確実な「心」なのかというと、今の気持ちや考えは、瞬時に過去のものになる。はじめて瞑想をしたとき、頭の中のイメージ、思いが次々に移りゆくので集中できなくて驚いた。誰でも、今と1分後には別のことを考えているはずである。「現在心不可得」。
 ここからは岡野先生の本の引用。
 《「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」が分かると、「私たちは今の心にこだわとうとしてもこだわることはできない。こだわってもムダ、こだわらなくてもいい、だからこだわらない、というふうになれるわけである。
 自分の心の状態をこうしておきたい、たとえば幸福でありたいとか、あるいは嫌な気持ちをなくしてしまいたいとこだわらなくても、私たち個人にとって都合がいい心も都合の悪い心もすべて変化していくのだ。そのダイナミックな変化は、「一切の法は、これ仏法なり」と言われるように、それはすべて宇宙の働きだということになる。そうだとすると、宇宙が働くように、私の心が宇宙と共に働くように、宇宙にお任せしておけばよい。
 そうなると、私たちは悩みがあっても悩まない、現象としての悩みがあっても根源のところでその悩みから解放されている、という心になれるということである。覚ったら悩みがなくなると想像している人がいるが、非常に深い覚りを開いた人も、現象としていろいろなことに悩むことはなくならない。しかし、心の深いところで、それから解放されているということのようである。
 例えば、西田幾多郎は、坐禅をしながら哲学をした有名な哲学者で、世間的には生前にすでに日本最高の哲学者と讃えられた人であるが、家庭的にはいろいろ不幸なことがあったという。そういう不幸の真っただ中に日記に書いた和歌が残っている。

わが心深き底あり喜びも憂(うれい)の波もとどかじと思う
 心の表面には確かに喜びや悲しみが波立っているのだが、その波は私の深い心の底には決してとどかない、という心境を歌っている。》(P240-241)

 悩みを避けることはできない、しかし、その底に宇宙と私への全肯定があればいい。この境地をしっかり自分のものにしたいものだ。
 酒も進んでいい気持ちになって紅白も終盤。みなさまに良い年を祈念します。