橋田信介さんの思い出

takase222008-01-16

長井健司さんが殺害されたあと、危険な取材とジャーナリズムについての催しに声がかかり、10月から年末まで5回の座談会やシンポジウムに出た。
すると、いつも過去に亡くなった戦場ジャーナリストとして橋田信介さんの名が挙がった。
04年5月27日、イラク戦争取材中に襲撃され、甥の小川功太郎さんととともに死亡した。61歳だった。今もときどき思い出すが、とてもユニークな人だった。

彼は実は、私が働いていた日本電波ニュース社という通信社の先輩で、その会社で橋田さんの次の次のバンコク特派員が私だった。橋田さんが独立してバンコクに「ニュースボックス・アジア」という会社を作った時期、私は二度目のバンコク駐在となったので、会う機会も多かった。
03年末、「おれ、60歳になったんだよ。還暦の日本人記者が、戦争やってるイラクで年末年始を過ごす、みたいな企画やんない?面白いだろ?」と持ちかけられて、うちの会社からカメラマンを出して番組を作った。そのとき橋田さんに「ジン・ネット」の記者証を発行したが、襲撃事件のときもその記者証を身につけていたそうだ。
最後のイラク行きの直前にも、小川さんを連れて私の会社に挨拶に来られた。一緒に昼ごはんを食べたが、いつものように冗談を連発して笑っていた。今も、亡くなったことが実感できない。

橋田さんには報道人として学ぶべきことが多い。
「緊迫した最前線からリポートします」といった、いかにもかっこつけたリポートは橋田さんの最もきらうところだった。また、「平和」や「人権」を大所高所から論じることもなかった。彼の目指したのは、「誰でも分かる」報道だった。
強烈な印象を残したものの一つが、イラクからの水に関するリポートだった。
橋田さんは、手にペットボトルを持ってリポートした。橋田さんのブログから当時の取材を再現しよう。

サマワに派遣された自衛隊は、住民の生活支援、特に給水が任務だとされた。ところが・・・
サマワの水道普及率は75%。しかも、《フランスのNGOが地元の人、六十人を雇用して供給を手伝っているのだそうです。失業率が七〇%以上の地域ですから地元の人には大歓迎されています》という状況。
そのうえ、市場では簡単に水が手に入ったのだ。
《地元の市場で輸入品であるネッスルの1・5リットルのミネラルウオーターを買いました。日本円で五十円でした。》
一方、《サマワに投入される予算総額は三百五十億円を超しそうです。つまり一日に約一億円使うのです。》そして自衛隊が作る水の量は、一日わずか80トン。

自衛隊が作る水の単価はどうなるか。1.5リットルのペットボトルに換算すれば40倍近く、つまり、市場で50円のものが2000円近くすることになる。
イラク自衛隊がやっていることが、まるで漫画のようにおかしなことであることを、実にうまく表現している。
あくまで庶民の目線で、具体的に、という橋田報道の面目躍如たるものがある。
亡くなった今も「橋田信介のおもしろエッセイ集」ではいろんな話が読めるので、ぜひ観てほしい。写真はブログの表紙の橋田夫妻である。
http://www.ubenippo.co.jp/skiji/hashida/hashida_index.htm