わが青春のアメリカ―ベトナムの影

ベトナム戦争の影がアメリカを覆っていた。
私が渡米した2年前の68年、「テト攻勢」があった。北ベトナム=解放戦線側の大攻勢である。サイゴンアメリカ大使館にベトコンが突入して米政府にショックを与えた。軍事的にはベトコン側が甚大な被害を出した「無理攻め」だったのだが、政治的にはアメリカの敗北と評価されている。
いっこうに先の見えない泥沼に、社会には厭戦気分があふれていた。ベトナムの戦場から帰国した兵士が、同胞のアメリカ人から「人殺し!」などと罵声を浴びせるようになった。これでは、いったい何のために戦うのか、根本的な疑問を持つのも当然である。
あるベトナム帰りの兵士に会った。伝説的な「ハンバーガヒル」の激戦から生還した人だった。
以下、この激戦について映画「ハンバーガヒル」の解説から引用する。
「1969年5月10日、米101空挺師団の分遣隊がアシャウ・バレーに乗り込み、アパッチ・スノー作戦が開始された。第187連隊第3大隊のブラボー中隊が、“937高地”と呼ばれたドン・アプ・ビアを確保するため北ベトナム正規軍と衝突。10日間の凄惨な戦闘の末、米軍は堅固な防御線の敷かれた山頂を包囲した。この地を確保するため、第3大隊600名の出した犠牲は7割。兵士の誰かが「このヒルは、俺たち全員をミンチにしようとしている」とつぶやいたことから、そこは以後“ハンバーガー・ヒル”の名で呼ばれた……」。
私の会った帰還兵は、暗いまなざしで、体験を生々しく語った。
「敵のいる山頂に向けて麓から攻めあがっていった。M16自動小銃を連射しながら横並びで進んだ。恐怖に引きつりながら、とにかく撃って撃って撃ちまくった。狙いなどつけずに、空になった弾装を取り替えては連射した。
長い時間をかけて、ついに山頂に着いた。見回すとそこには敵は一人もいない。もぬけのカラだった。俺たちはみな拍子抜けして座りこんだ。そして、誰もが声を出して泣き始めたんだ。俺たちは何のために戦っているんだと言いながら」。
彼はその後、自分の踵をピストルで撃ち、後方の病院に送られたそうだ。怪我をしてでも、戦場を離れたかったのだと言う。
想像以上の戦争の悲惨さを知り、私も行動を開始した。
もともと、ベトナム戦争への日本の関与には批判的だったし、「米帝」などという言葉を使う左翼的高校生であった。
まず、地元ミルウォーキーの新聞に投書した。「アメリカがベトナムなど他国で自分勝手な行動をやめないと、世界中から軽蔑されることになる」といった内容だった。
次に、ニクソン大統領へのチェーンレターを始めた。チェーンレターとは、「不幸の手紙」方式で、まず5人の留学生仲間にハガキを送る。すると受け取った人は3日以内に、「ニクソンベトナムから出て行け」という文章の抗議ハガキを1通ニクソン大統領宛に出すと同時に、受け取ったのと同文のハガキを5通知り合いに出さなくてはならない。こうすれば、5×5×5・・・と鼠算式に増えて、1ヵ月後には、なんと1000万通もの抗議ハガキがホワイトハウスに殺到することになる。
あとで、調べたら、友人たちは後難を恐れて誰もハガキを出していなかったことが分かった。ホワイトハウスには、私の1通がむなしく届いただけだった。
私が後にベトナム支援運動に飛び込み、大学院でベトナム法を学ぶようになったのも、こうしたアメリカでの体験があったからだろう。